2013年5月26日日曜日

三位一体主日説教

「主が語るままに」

主日の祈り
全能の神、栄光の父なる神様。み霊によってすべては新しくされます。主キリストのみ力によって、一切の恐れと疑いを私たちから取り除き、父と子と聖霊のひとりの神を礼拝する恵みを与えてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書6:1-8
6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。 2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。 3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」 4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。 5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」 6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」 8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

第二日課:ローマの信徒への手紙8:1-18
8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。 12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。 18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

福音書: ヨハネによる福音書161215
16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

【説教】
私たちは、本日、三位一体主日と名前の付いた主日を共に過ごしています。この三位一体という、キリスト教の教義は、非常に理解に苦しむのではないでしょうか。3つの位格を、神様はお持ちであるが、しかし、神様はおひとり、一体であるということであるということです。一言で言ってもおそらくさらに理解に苦しみます。

もう少し詳しく宣べるのならば、私たちが信じる神様は、父なる神様が全能によって私たちを支配し、人間となられた子なるイエス様がまことに人間となられて、本日のローマの信徒への手紙でパウロが「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り」と語っているとおりです。そのようにして、私たちの罪を十字架に架かってくださり贖ってくださったのです。そして、約束の通り聖霊なる神様をこの世に送ってくださり、神様やイエス様が居ないこの時代にあって、私たちの信仰を導いてくださるという3つの働きをしているということです。

位格というとなんだか難しい言葉ですが、これはペルソナとラテン語で表されていて、この意味は人格ということです。つまり、神様は3つの人格をもって私たちにかかわってくださり、私たちの信仰を導いてくださっている。真実を伝えてくださっているということなのです。

こう言ってみたものの、おそらくこの教義に関しては、たしかにキリスト教の神様は、三位一体の神であるということについてどの司祭、牧師、神学者も一致していることですが、その理解の仕方といいますか、説明の仕方は本当に多岐にわたるでしょう。それくらいに難解な教義であると言えます。
そのような神様であることを覚える日を私たちは迎えているわけであります。
しかし、この三位一体の神様を私たちはたしかに信仰しています。では、何故そのことが可能なのか、非常に難しい概念であるはずのこのことを信じる力はどのように与えられているのかということを共にこの時、聖書の御ことばから聴いてまいりましょう。

さて、以前にもどこかでお話をしたことがあるかもしれませんが、私は牧師の家庭に生まれ、小さいころから教会の礼拝に出席をしていました。教会に住んでいたのだから仕方ないことではありました。
毎週、毎週教会学校や大人の礼拝、いわゆる主日礼拝に出席する中で、私自身の心のうちに神様ということが自然と浸透していきました。

しかし、その時の私は、おそらく神様という方がどのような方で、三位一体とか、罪を贖ってくださったとか、聖霊で力をあたえてくださったということは、考えていませんでした。ただ漠然と見えない何かに守られているという安心感だけで、神様を信じていたと思います。何の違和感もそこにはありませんでした。ただただ純粋にそのことを信じていたのです。

しかし、段々に大きくなるにつれて自分の中で違和感を覚えるようになったのです。それは目に見えないということに躓きを覚えたからです。何故、見えないのか。本当にいるのであれば、姿の一つでも見せてくれたらいいのに、仏教なんかは仏像になっていますから、何となくこういう方だったのかとも思うわけです。
イエス様も数々の絵に描かれていますが、おそらく住んでいた地域はパレスチナのあたりでしたから、あんなに西洋人っぽくなかったでしょう。

いずれにせよ、いつの間にか本当に心から純粋に神様を信じるということが難しくなっていました。だからこそ、一度教会から離れ、信仰を持つことをやめてしまったのかもしれません。
このことから何を言いたいかと申しますと、私たちはいつの間にか、証拠を求めるようになってしまうということです。目で見て、手で触れて、肌で感じる、頭で理解するということに囚われてしまうということです。
そして、それは時には、私たちを惑わせてしまうのです。

本当に大事なことは、目に見えないということをこの三位一体の神様は、私たちに告げておられるのではないかと思うのです。聖書に戻りましょう。
本日のヨハネ福音書の冒頭の12節の御ことばでイエス様は弟子たちに「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と語りかけます。
この御ことばの「今、あなたがたには理解できない」という御ことばを、私なりに私訳してみましたら、この箇所は「今、あなたがたには、耐えることはできない」となるのです。

つまり、私たちは、この世に生きる限り、耐えがたい出来事にたくさん出会うであろうということをイエス様は私たちに伝えるのです。どんなに神様が、イエス様が私たちに御ことばを語ってくださっても、どうしても耐えがたく、苦しく、そして悩むことに出会ってしまいます。心から純粋に神様を信じていたらそんなことは無いと言われてしまいそうですが、実際にはそうもいかないというのが実情ではないでしょうか。

しかし、そのような人間の実存をヨハネは見ながらも、次の節で「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて審理をことごとく悟らせる」という御ことばを私たちに伝えています。

耐えがたく、生きづらく、悩みも、憂いも多いかもしれない、しかし、神様は私たちに聖霊を遣わしてくださり、すべてのことを深く知るようにしてくださるとイエス様は言うのです。
福音書を記したヨハネは非常に年を取ってからこの福音書を記しました。彼自身もおそらく人生の中で色々な経験をしてきたことでしょう。しかし、その中で気づかされたことは、この目に見えないものを信じる幸いだったのです。

ヨハネ福音書を読むと「真理」「栄光」「弁護者」など難しい言葉が数々出てきますが、それは「目に見えない大切なもの」があることを示すためであったのです。そして、それは決して私たちの頭や目で見たから理解できるものではなく、神様が私たちに働いてくださり、そのことの意味を知らせてくださるのだということを言っているのです。

そして、このことは、肉体の目ではなく、信仰によって見つめるということが重要なことであると思います。
小さなころの私に信仰があったかは、分かりません。けれども、あの当時の私は思い返してみるならば、頭で理解して、神様を信じます。目で見たから聖霊を、イエス様を信じますという信仰ではなく、ただただその信じる者によって信じることができていたのです。

私たちは、多くを経験すると、その経験に基づいて行動をします。脳というのも、見たものを認識し、そして、脳を働かせて、経験の引き出しから、それが何であるかということを認識します。
人間の構造自体がそうであるにもかかわらず、神様は見えない。けれども、そこにたしかにいる方であると私たちに告げます。それが、信仰の力なのです。

三位一体という教義については、非常に難解な教義です。けれども、たしかに私たちにはこの神様の働きによって、神様を神様と悟る力を与えられているのです。
おそらく、すべての信仰者は、神様の御姿を見たことがある人は居ません。けれども、こうして神さまの御ことばが何千年も語り継がれているのは、その神様が私たちに働きかけてくださり、私たちの信仰を強め、導いてくださったからにほかありません。

ですからパウロが、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」と語ることが真実なのです。

私たちは、この神様の霊によって導かれ、「父よ」と呼ぶことができるのです。イエス様を救い主、メシアであるということができるのです。聖霊が私たちを導いてくださっていると信じることができるのです。
この神様の恵み深い働きかけに私たちは何もすることはできません。けれども、この神様のお働きによって私たち一人一人が信仰を与えられ、導かれているということを今日覚えることができました。

この神様の御手による働きに感謝して、歩むことができることの幸いを思いながら、父であり、贖い主であり、聖霊なる神様を大胆に信じていきましょう。

2013年5月24日金曜日

「やらない」より「やる」 某塾講師風に言うならば「今でしょ!!」

私の個人的な宣教の課題として、青年伝道ということがひとつ挙げられる。
牧師になってまだ2年目だが、本当にありがたいことにルーテル教会次世代育成プロジェクト(The Next Generation)が主催する小学5,6年生のこどもキャンプ、中高生が集うティーンズキャンプなどにスタッフとしてかかわらせていただいた。
また、私が司牧する下関教会は、地域に梅光学院、西南女学院があるため、そこに通う生徒たちが比較的集まりやすい。
しかし、この関わりの中で一年で洗礼に導かれたり、洗礼の準備を始めた子どもたちは居ない。数の話ではないが、やはりこのことは真剣に受け止めていかねばならないだろう。

前者の各キャンプについては、ほとんどの子どもたちが既に洗礼を受けているため、その信仰の学びと強化ということが、主な狙いである。もちろん、未受洗の子どもたちも参加し、このキャンプによって洗礼に導かれていったという例もある。

後者のミッション系学校の生徒については、おそらくほとんどの生徒が、学校の宗教の授業で教会に行ったことのハンコが必要、レポート提出のためといった具合であろう。
もちろん、そういう課題を出されてちゃんと教会に来てくれるのだから、素晴らしいことであるし、その学校が大切にしている事がらをより理解するために必要な働きかけであろう。
そして、中にはそこから自発的に毎週通ってくれるようになった子どもたちも与えられている。

私は、正直言ってこの子どもたちに応えられているのかという課題が、個人的にある。
キャンプに集う子どもたちも、教会に集う子どもたちも、言ってみれば、授業で先制や教会の人に「行ってみたら」という言葉はあったが、最終的にそこに集うか否かは、彼らの自発性、自主性にかかっている。

そのようにして、自発的に、自主的に来てくれた子どもたちが、神様とは、イエス・キリストとは、聖霊とは何かということに心を向けてとらわれるようなメッセージを語り得ているか。問いかけられているか。
これは、非常に大きな問題だ。

受け皿としての役割を果たし、子どもたちにキリスト教を伝えるということのむずかしさを痛感する。青年伝道と一言で言っても様々な方法があることも知った。
だが、その中から何を選び取り、実践していくかということが自分の中でまだ決めかねている。
しかし、昨今のキリスト教の事情から考えるならば、次世代への信仰継承は急務である。
個人的にはまだ時間がかかることであるが、その中で諦めて何もしないよりも何かをやり続けることを忘れずに継続してこの課題と向き合っていきたい。

そして、子どもたちに福音を語り続け、そこから神様の招きを受け、洗礼へと導かれる子どもが一人でも与えられるようにと祈りに覚えていきたい。

マタイによる福音書19章14節
「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」