2013年6月23日日曜日

6月23日 聖霊降臨後第5主日 礼拝説教

言葉が実現する


本日の聖書日課
第一日課:列王記上1717-24節(旧)562
17:17 その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。 18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」 19 エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。 20 彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」 21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」 22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。 23 エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。 24 女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
第二日課:ガラテヤの信徒への手紙111-24節(新)342
1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。 12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。 13 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。 14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。 15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、 16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、 17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。 18 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、 19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。 20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。 21 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。 22 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。 23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、 24 わたしのことで神をほめたたえておりました。
☆福音書:ルカによる福音書711-17 節(新)115
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。 12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺(かん)が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 14 そして、近づいて棺(かん)に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。 16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。


【説教】
本日の福音書の出来事は、非常に驚くべき出来事が語られています。
なぜならば、「死人が起き上がってものを言い始めた。」とあるように、死んでいた者が生き返ったからです。イエス様が、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言い、その棺に触れられることによって、この出来事は起こりました。
おそらく、今の医療の技術をもってしても死んだ者を生き返らせることは不可能でしょう。ですから、現代人である私たちの目から見ても非常に驚くべき出来事が起こっていることは自明です。

しかし、この物語は、ただ単純にイエス様が素晴らしい力を持っている。そらみろ、やっぱりイエス様は、神様の御子であるということをひけらかすために書かれている物語ではありません。では、このイエス様の出来事から語りかけられている福音とは何か。そのことをこのひと時ご一緒に神様の声に耳を傾けてまいりましょう。

本日の福音書においてもっとも私たちの心を打つ御ことばは、13節に出てくるイエス様の母親に対する「もう泣かなくてもよい」という御ことばではないでしょうか。
母親にしてみれば、愛する息子を亡くしたことは、悲しみのどん底の出来事です。しかも、彼女はやもめでした。夫に先立たれたことにより、社会的に弱くされ、苦労をしながらも息子と共に生きてきました。しかし、この時、そのような彼女に追い打ちをかけるかのように息子すらも失ってしまったのです。

何かを失うということは、非常に大きな痛みを伴います。しかし、人は誰しもこのことを経験いたします。私自身もこういう経験を少なからずしてきました。両親の祖父母は、皆天国に召されていきましたし、友人も数人病気などで先立たれたという経験をいたしました。
また、年を取ることによっても、失うということを経験します。昔は出来ていたことが段々とできなくなる。小さな字をたやすく読んでいたのに、今は老眼鏡をかけて距離を調整してやっと読むということも、一つの失われたということの出来事です。また、階段をすいすい昇り降りするということも、なかなかできなくなったということもそうでしょう。
そのことを痛感すれば、するほどに自分が情けなくなり、悔しさがこみあげてくるような思いがします。
いずれにせよ、失うということにわたしたちは、大きな怖れを抱きます。そして、できるならば、失うことを避けようとして生きていきたいとも願います。

聖書に戻りましょう。ここに登場するやもめはまさに、失うということの極みの中にあるのです。
夫を失い、頼りにしていた、愛する息子も失い、そして、そのことによって益々社会の中で生きにくくなるという喪失を味わっている最中なのです。
ましてや、死ということは、もう絶対に取り戻すことのできない喪失です。冒頭にも述べましたが、当時の医療技術からいくら進歩したとはいえ、現代の医療技術でも死んだ者を生き返らすことは不可能なのです。

イエス様は、そのような悲しみに暮れている女性の葬列に出会ったのです。「棺が担ぎ出されるところであった」と記してありますから、息子の遺体をまさに墓穴に収めようとしている、そのような場面です。
聖書を読む限り、意図してこの葬列に出会ったわけではなさそうです。たまたま弟子たちと共にナインという町に来た時に出会った出来事です。

この時、イエス様は、この葬列を見て、そして、そこで嘆き悲しむ母親の姿を見て、憐れまれるのです。
ここに記されている「憐れみ」とは、はらわたが動かされるほどの憐れみです。しかもこの箇所は、ギリシャ語では受動態として語られています。つまり、イエス様は、この母親の姿をみて、彼女の悲しみ、嘆きをご自身に受け取られていったということです。
「あぁ葬式をしているのだなぁ」という他人行儀な思いではないのです。イエス様はこの時、本当に心からこの母親の痛みに寄り添ってくださっているということが聖書に記されているのです。

死という人間には不可避な出来事、もうどうしようもない、諦めるしかないという思い、けれども、どうしたらこの気持ちを良いのか分からずにいるこの母親にイエス様は「もう泣かなくてもよい」と語りかけます。
この箇所を個人的に私訳するならば、私はこうします。「もう悲しまなくてもよい」です。泣くというよりも悲しみという感情の方がこの母親にとっては強かったと思ったからです。

この言葉は、気休めでイエス様が語られたのではありません。この御ことばには、先ほども言いましたように、イエス様ご自身がこの母親に本当に深く憐れまれたからです。この慰めということは、非常に彼女にとって大きな御ことばであったと思います。
私たちの取り巻く世を見回してみると、このあやふやで、定かではない言葉があふれているように思います。
先日、新聞記事で一つの政府に対する批評がありました。それは「めざし」政府だということです。
魚のめざしではなく、自民党の公約の中に「~を目指し」という言葉が33あったという記事です。夢を語る、夢を膨らますのは良いが道筋が見えなければ意味がない。実現しなければ意味がない。というような内容でした。

私たちは誰しも、何かを失っている時、そこから立ちあがるために様々なことを必要とします。言葉であったり、それに代わる新しい者であったり、それは様々な姿をとります。そして、それを確かなものとして受け取っていきたいと思います。
死というどうしようもない出来事、それ以上に大きな悲しみは無い、行き場のない悲しみに暮れるしかない彼女にとってこのイエス様の「もう悲しまなくてもよい」という御ことばはどう彼女に響いていったのでしょうか。
おそらく、聖書が語りかけるかぎり、その御ことばは彼女にとって確かなこととなったのです。この福音は、乗り越えることの不可能な息子の死という悲しみから引き上げられる大きな慰めの言葉となった、確かなものとされたということを語っています。

先ほど、イエス様がこの女性の痛みを受け取ったのだと私は皆さんにお伝えいたしました。つまり、この一連のイエス様の出来事が示されていることは、神さまもまた私たち一人一人が経験しなければならない、あらゆる悲しみや、嘆きに寄り添ってくださっているという真実です。
この憐れみ深い神様が私たちと共にいてくださるという真実をこの出来事は、私たちに語りかけます。
しかも、この物語は、さらにこの行き場のない悲しみ、超えることのできない嘆き、失われたものを回復された出来事が記されています。

イエス様は、この時その母親の悲しみをご自身に受け取っていき、その棺に手を置いて「起きなさい」と命じられ、息子を生き返らせ、その息子を母親に返されたのです。
ここに一つの真理が語られています。それは「返される」ということです。私たちは、失ったものについて考える時、それは自分で獲得してきたものを失うということを思い起こします。
それが体力ならば、自分自身がトレーニングをしてきたからかもしれません。健康であったとしても、それは自分なりに気を使ってきたから獲得しているものだと思います。
何にせよ、私たちが失うということは、何か自分で獲得したものを失くすということを想像するのです。

しかし、そうではないのです。ここにイエス様が母親に息子を返したと記されているように、すべては神さまから与えられたものであるということです。この母親にとっては、自分が苦しんで生んだ、そして、夫に先立たれたけれども、必死になって育ててきた息子という、自分の何かによって得た息子でした。
でもそれは大きな思い違いだったのです。この息子もまた神様が与えてくださったものだったのです。

ここに記されているイエス様と母親の関係性は、そのような人間と神様との本来の在り方を示しているのです。
私たちは、何かを失うということについて、自分が中心になっているのです。だからこそ、それをひとたび失ってしまったのなら、悲しみ、嘆き、それに固執して、それを取り戻したいと足掻きます。
しかし、失ったものをわたしたちはなかなか取り戻すことはできません。そのような限界のある存在なのです。

しかし、神様はそうではありません。失ったのものを、不可能な事柄を回復される方なのです。
つまり、失ったことを嘆く必要が無いということです。
いかなる事柄であれ、失われたものは、回復されていくのです。この時、母親には生き返った息子が、イエス様の手によって彼女に返されましたが、回復されるものは、その人によってそれぞれかもしれません。けれども、たしかに悲しみにくれ、自分の限界の中で嘆くほかなかった者に大きな救いがもたらされたのです。

主のみ言葉は、私たちの真実となるのです。起きなさいと言われれば起きる者とされる。「もう悲しまなくてもよい」と言われれば涙は拭われるのです。
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。という御ことばが真実であるということをこのイエス様の出来事によって私たちは示されました。

讃美歌の11番にこのような歌詞があります。
生くるも死ぬるも ただ主をおもう
ゆるがぬこころを あたえたまえ

私たちは、今日この御ことばによって、この揺るがぬ心を、いつも共にいてくださる。確かなものを与えてくださる。回復を約束してくださる神様の福音を聞きました。
この約束を胸に刻みながら今週一週間も歩んでまいりましょう。恐れることはありません。共に主が居てくださいます。失うことの多さを思います。様々なことを失われている人々のことを思い起こします。けれども、今日そのような私たちの思いをご自身の身に負って、深い憐れみと、そこからの回復を今日この福音によって私たちに約束してくださっています。
この示された神様の深い慰めに大胆により頼んで歩んでまいりましょう。


2013年6月16日日曜日

牧師として

今日は、私が牧師として働かせていただいている中で大切に思っていることを一つここに記したいと思います。

それは私が敬愛する先輩牧師にもらった言葉です。この言葉がわたしの牧師としての在り方の根底として、生き続けています。

「みことばのみが確かに信徒を育てます。牧師はみことばが働くことに仕えるのみです」

牧師として、召しを与えられているということ、それは、みことばが働くことに仕えるということであると、私は受け取っています。

時として、自分は何が成せるだろうか、何を成し遂げただろうかということに、心がとらわれそうになります。けれども、この言葉は、その思いを打ち砕いてくれます。

自分が成し遂げたことではない、私を通して神がみことばを働かせてくださるということです。
そこに信頼して、召しに応えるということです。

神さまが私にみことばを働かせて、なすべきことをなさしめてくださる。そのことに信頼して行ければと強く思います。

このことは、何も牧師だけでなく、すべての働きについていえることであると思います。会社員であろうと、教師であろうと、専業主婦であろうと、学生であろうと、そこに働いてくださる神様のみことばに生きることが大切です。

そのために真剣に神様のみことばに聴いていくということも必要です。
それは、祈りを伴うということです。祈りによって神様と対話していく、自分の思いや、どれだけ成し遂げて来たかという思いを捨てて、「あなたの御心は、御旨はなんでしょうか」と聴いていくことであると思います。

この先輩牧師にいただいた手紙を私はデスクの壁に貼ってあります。
いつでも、そのことを思い起こしながらこれからもこの下関・厚狭の地で宣教に励んでいきたいと思います。

2013年6月15日土曜日

6月9日 聖霊降臨後第3主日説教

東京駅のように

主日の祈り
主なる神様。あなたの民の願いに心を傾けてください。そして、私たちがなすべきことを悟り、喜んで行う力を与えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。
本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書71-7節(旧)1188
7:1 主からエレミヤに臨んだ言葉。 2 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。 3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。 4 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。 56 この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。 7 そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。

第二日課:コリントの信徒への手紙Ⅰ151220節(新)318
15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。 20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

☆福音書:ルカによる福音書637-49 節(新)113
6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」 39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」 43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」 46 わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

先ごろ、東京の玄関口である東京駅の修復工事が長年の歳月をかけて、やっと完成したというニュースがありました。私が、中学生で実家を離れて上京したころから修復工事をしていましたから、本当に長い年月をかけて修復されたようです。そして、大正時代の近代建築の生きた題材ですから、戦災で焼けてしまった南北のドームの部分を復元した3階建ての立派な駅舎が完成したのです。私は、恥ずかしながら先年まで東京に住んではいましたが、結局駅舎内を乗り換えのために移動することはありましたが、外観や復元されたドームを見ることなく山口に赴任してきました。
今思うと、一目でも見ておけばよかったと思いますが、今度上京したら見てみようかと心に思っています。

さて、この東京駅の駅舎ですが、大正12年(1923年)に起こった関東大震災に耐えた建物としても有名です。M7.9もあった大規模な地震にも耐えたのです。周りの建物が倒壊する中、東京駅の駅舎だけはビクともしなかったそうです。
そのような地震に耐ええたのは、言うまでもなく土台がしっかりしていたからでした。

先日、東京駅復元の特集を見る機会があったのですが、修復工事で明らかになったのは、土台に上質な松の杭が1万本以上使用されていたそうです。そして、その松の杭を支えるために、砕石がびっしりと敷き詰められていたのです。このしっかりとした土台のおかげで東京駅は、関東大震災にも耐え抜くことができました。
建物を建てる上で土台がいかに重要であるかということをこの建物は示していたということになります。

さて、本日読まれた福音書の最後に付された小タイトルが「家と土台」とつけられています。
このことが何を私たちに福音として響いているのかということ、イエス様が語られているこのことは、何を意味するのかということをこの時、共に聴いてまいりたいと思います。

先ず、今日与えられました福音書の日課において、イエス様は人を裁くなと私たちに教えられます。この教えを聞いて私たちは、どう思うでしょうか。現代社会において、司法制度というのは、実のところ私たちの実生活を支配しています。犯罪をしたらということはもちろんのこと、教会においては宗教法人法など様々な法律によって、色々な事が定められ、それを破れば罰を受けるということが当たり前の世の中に生きています。

そして、聖書にもトーラーと呼ばれる律法の書が記されています。その代表格が、十戒になります。ユダヤの人々は、この十戒を基礎にして、自らの生活の規範としていきます。けれども、この十戒はいつの間にか字義通りにしか理解されないものへとされていったのです。それが、福音書に出てくるファリサイ派や律法学者という人々であり、イエス様は、彼らと真っ向から律法の理解について対立していくのです。

そもそも十戒とは、私たちを裁くために神様が定められたものでしょうか。はっきり言うならば、「否」です。十戒が神様からイスラエルの民に与えられたとき、雷鳴とどろく中で、恐れる民に対してモーセは「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」(出エジプト20:20)と語ります。つまり、この十戒とは、わたしの在り様がどうであるかという物差しではなく、神様の側の恵みであり、罪という深い谷底に落ちないためのガードレールだったのです。

それが、先ほども言ったようにだんだんといかに私が正しいかという正しさを証明するものさしのようになり、そして、律法をもって人を裁くものさしとなっていったのです。神様の側の全くの恵みが、人間の物差しになってしまったが故に、イエス様とファリサイ派や、律法学者との対立が起きたのです。

そして、更に言うならば、この律法は神様の御ことばです。イエス様が私たちに教え、諭してくださるのと同じです。つまり、聖書に記されている御ことばは、たとえそうは見えない者であろうと恵みそのものとして受け取っていくことが大切であるということを示しています。
そして、その御ことばによって私たちは行うということが、大切なことであるとイエス様は言います。
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と語りかけている通りです。

十戒がイスラエルの民に与えられたとき、民たちは「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります。」という約束によって、神様との契約を交わしたと聖書には記されています。
神様の御守りと、導きに聴き従い、行っていくという誓いです。この約束は、神様との非常に大切な約束です。
行うということは、その神さまとの約束ゆえに行うのです。しかし、私たちルーテル教会は、行いによってではなく、神様の義によって義とされ、救われているという教えを大切にしていますが、このことも字義通りに理解すると、行いは必要でないと取られかねません。しかし、そうではないのです。

私たちの行いとは、その神様によって義とされたがゆえに、神様の御救いのゆえに行う者とされるのです。
それが、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人なのです。
岩の上という事は、その地盤は揺るぎないと言うことです。

しかし、私たちを突き詰めていけば、十戒や律法の事がらをすべて正しく行うことは、私たちには出来ません。また、この平地の説教と言われる先週から続くこの聖書の御ことばですら、私たちは守る事が困難であります。先週読まれた、敵を愛しなさいということもそうです。隣人を愛することなら何とか出来そうですが、敵を愛すると言うことは非常に困難さを覚えます。

ですから、極端な話しでも何でもなく、私たちは神さまの御前において、「お前はわたしのみ言葉をまるっとすっぽり全部守っているか」と問われたならば、何も申し開きできないほどに罪ある状態です。
そのような罪人であるわたしたちに対して、イエス様は今一度、この旧約の約束を更新されるのです。けれども、それは、空しい約束ではなく、そして、私たちには到底無理な約束でもありません。

なぜならば今私たちは、イエス様の十字架によってその罪を贖われ、赦されているという真実をも御ことばから聴いているからです。このイエス様の十字架の出来事を通して、今一度主なる神さまとの約束を聞くとき、「わたしはまったくもって罪人であります。けれども、あなたの御子イエス様の贖ってくだり、義とされ、信仰を与えられ、今一度あなたとの約束を交わす事が赦されています。」と告白することが出来るのです。その恵み、罪人に過ぎない私自身を捨て置かない神様の愛に感謝しつつ、応答していくことは大切なことです。

今この御ことばを聴く私たちは、悠久の昔、イスラエルの民が神さまと交わした約束と同じ事がらの中に居るのです。このことは人ごとではありません。この約束のうちに私たちはあり、神さまの御ことばに喜んで聴き従うということをイエス様から語りかけられています。そして、その様なときたとえ大水で揺り動かされても、堅く据えられた土台、つまり私たちの生の根本にあるイエス様の十字架の贖い、罪人を捨て置かれない神様の愛、恵み、祝福、赦しによって揺り動かされることのない者とされているのです。

そしてこの事が示すことは、この家と土台というイエス様のたとえ話によって、このルカによる福音書のいわゆる平地の説教を聞いた者の在り方を示しているのです。この教え一つ一つに私たちがいかに応えるか、しかもそれは旧約の時代に交わされた約束以上に、今やこの御ことばによって、イエス様ご自身によって、イエス様の御ことばと存在、わたしのために罪を贖ってくださったという大いなる恵み、御救いに照らし合わせて、結ばれたものなのです。

この事によって、私たちははじめて、イエス様の弟子として「私たちがなすべきことを悟り、喜んで行う力を与えてください。」という本日の主日の祈りの言葉となるのです。
十字架によって贖われたわたしが、神様との、イエス様との交わりを通して今一度与えられた新しい約束に対して「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります。」とかつてイスラエルの民が応えたように応えることができるのです。

まさに、どっしりとしたイエス・キリストという土台を、東京駅の何万本もの松杭、関東大震災にも耐えた立派な土台にまさる、人生の土台を据えることとなるのです。恐れずに、神様とのこの約束を果たしていきましょう。
イエス様は大水が襲うと表現し、私たちの人生には困難や苦難、悲しみが押し寄せることは否定しません。

まさにイエス様が捕まる夜、ゲッセマネの祈りにおいて、「この杯を取り除いてください」と祈りながらも、「しかし、御こころのままに」と祈られたイエス様もまたこの大水の体験をしています。けれども、本当により頼み、御声に従うならば、その事ももう神様にお委ねしていけばよいのだという堅い父なる神様への信頼がそこに表されています。
ですから「大水が襲う」ということが、たとえ起こったとしてもこのイエス様の祈りの姿が示しているように神様が必ず私たちを導き、なすべき業と、祈りと、恵みとを与えてくださるということを伝えてくださっています。

神様があなたを支えてくださっています。イエス様があなたを赦し、喜んで神様の、イエス様の御ことばに従うことができる者とかえてくださっています。罪人であり、罪しか犯すことの出来ないわたしでありますが、この更新された約束、まさに新約の中に生きて、歩んでいます。
この揺るぎない約束に立って歩むことが赦されていることを思いつつ、この日から始まる一週間を喜んで神様の御ことばを行う者として、遣わされたそれぞれの場で証ししてまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。

2013年6月2日日曜日

6月2日 聖霊降臨後第2主日礼拝 説教




「和解」




主日の祈り
主なる神様。私たちにみ霊を注いで、あなたの愛の器とし、辛苦の道を歩むすべての人に、よき隣人として仕えさせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:創世記45:3ー15
45:3 ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。 4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。 5 しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。 6 この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。 7 神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。 8 わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。 9 急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。 10 そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。 11 そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』 12 さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。 13 エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」 14 ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。 15 ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。

第二日課:コリントの信徒への手紙一141220
14:12 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。 13 だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。 14 わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。 15 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。 16 さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。 17 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。 18 わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。 19 しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。 20 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。

福音書: ルカによる福音書6:2736
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

【説教】
今日はまず、皆さんお一人おひとりの歩みということを思い起こしていただきたいと思うのです。おそらくお一人おひとり「さぁあなたの人生を思い出してください」と言われたら、印象に残っている出来事や、楽しかったこと、苦しかったことなどが瞬時にパッと何かしら思い出すことができると思います。
私たちは、そのようにして一人ひとりが、それぞれに違う人生を与えられ、一人として同じ歩みを歩むことはありません。同じ事がらを共有したとしても、その人によって思うことも、感じることも違ってさまざまであると思います。

そのようなお一人おひとりに与えられた人生をどう生きるかということは、おそらく人間の究極の課題であると思います。そして、そのことを思いながらそれぞれに皆さんも歩んでいることであろうと思います。ある人は、富を求めて、ある人は、名声を求めて、ある人は、とにかく働くということを大切にして、ある人は、家族を大切にするということを念頭に置きながらと、その生き方は様々であります。

今日の与えられました御ことばは、その人生をどのように生きるかということを私たちに語りかけている御ことばであると思います。そのことを共に何であるかということをご一緒に耳を傾ける時としてまいりたいと思うのです。

さて、先ず今日は第一日課から見てまいりたいと思うのです。
今日与えられました日課は、ヨセフと兄弟たちの和解の場面です。昔、ヨセフが兄弟たちに妬まれ、エジプトの奴隷商人に売られてしまった。けれども、ヨセフはエジプトで夢の説き明かしをし、ファラオに気に入られ登用され、遂にはエジプトの今でいう首相の地位にまで上り詰めるのです。そして、夢の説き明かしによって飢饉が襲うことを予知し、たくさんのたくわえを国中にさせ、いざ飢饉が起きたときには多くの人々を救ったという物語の中での兄弟たちとの再会を果たした一場面です。

ここでヨセフが兄弟たちに「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。8わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」と言い切ります。弟を妬み、奴隷として売ったという後悔に苛まされている兄弟たちに対して、ヨセフはそのように言い切るのです。
私たちは、最悪な状況にあるとき、何故、どうして、という思いが大きく心を支配します。

おそらく、人間的な目で見るならば、ヨセフに起こったことは最悪の出来事でした。けれども、その最悪と思われていた出来事が、実は大いなる神様の御救いの出来事の一端であったということを、このヨセフ物語は私たちに伝えています。そして、ここで注目したいのは「お遣わしになったのは」という御ことばです。ここは、ヘブライ語では「置く」という意味です。つまり、それは神さまがヨセフをそこに置いたということです。人間的な目で見るならば、何故こんな目に、どうして私がという思いが支配します。

けれども、究極的に突き詰めていったとき、それは神様のご計画の中でそこに神様がその人を置いたということになるのです。そして、神様がそこにその人を置いたということは、意味があるということです。ただ単に無責任に神様はなさりません。神様が私たち一人一人を手に取って、そこに遣わしてくださっているということには大いなる意味があるということを覚えることができるならば、大変大きな幸いの中にあるということを思うことができる人生となるのではないでしょうか。

なぜならば、そこに神様がこの私を置かれたということは、そこで何があろうと神様の見守りと、導きとの内にあるということを意味します。まさに神様の御手の中にあるということです。確かにさまざまに自分の思いというものが心を支配してしまうことがあります。けれども、そうではないのです。
実は、私たち一人一人が今ここに居ること、今それぞれに与えられている状況の中で生きることには、神様から与えられている意味があるということであり、その神様の御声に耳を傾けながら歩むことができればと思うのです。

そのような神様がわたしを今このただなかに置かれているということを思いながら、本日与えられている福音書の日課に目を向けてまいりましょう。今日読まれました福音書の日課は、いわゆる愛敵の教えといわれているものです。マタイ福音書では山上の説教として語られていますが、ルカでは平地の説教の中におかれている教えの一つです。

この教えは、しばしば私たちキリスト者にとって大事な教えの一つとして学ぶ機会を得たりします。時には、クリスチャンは、敵を愛さなければならないとか、施しをしなければならない、祈らなければならない、もしくは、そういう人なのだろうと思われる根拠となっている箇所でもあります。
たしかに、愛するということは、非常に大切なことでありますが、この御ことばをただ単純に字義通りに、字面通りに聴くことは違うと思うのです。

イエス様が話しておられた言葉はアラム語といわれている言語です。そして、ユダヤの人々が話しているのはヘブライ語ですが、これらの言語には、命令形で「~しなさい」という言葉づかいよりも「あなたは~だろう」「あなたは~するだろう」「あなたは~しないだろう」という語法を好んで使うという一つの特徴があります。
十戒もまさにそのような語法で書かれています。しかし、日本語訳では、戒めなのだから命令形で訳した方がよいだろうと昔の訳者が思ったのでしょう。その訳を「~しなければならない」というように訳したのです。

翻訳者の批判をすることが説教ではないので、本題に戻りますが、ここで言いたいことは、このヘブライ語の背景ということに当てはめるのであれば、ここでは「あなたがたは敵を愛するだろう。あんたがたは憎む者に親切にするだろう。悪口を言う者に祝福を祈るだろう、侮辱する者のために祈るだろう」というようになります。
いずれにせよ、わたしたちは、このような生き方へと変えられるということをイエス様は私たちに伝えてくださっています。その根本は、何なのでしょうか。

それは、唯一の神様がお一人おひとりのうちに働かれるということです。
そして、その根底には神様の愛が、祝福が、祈りが働いておられるということです。あなたがたの父が憐れみ深いようにという言葉にあるように、この教えに先立つのは、神様の働きです。
私たちは、私たちの思いに囚われているのであれば、敵を愛することなど到底できません。
けれども、神様はイエス様をこの世に遣わしてくださり、御自分と敵対する者のために十字架に架かってくださいました。

十字架の出来事は、私たちキリスト者だけに与えられた救いの出来事ではありません。すべての人々の罪のためにイエス様ご自身が、その罪を背負い、痛み、苦しみ、悩みぬいてくださったのです。
だからこそ、私たちは、救いに与る者とされているのです。

この前提が無ければ、敵を愛することは空しくなってしまいます。
そして、この教えはまずもって神様ご自身が示してくださっているということです。それが十字架の出来事であり、私たちの一人一人の人生に実際に働いてくださった神様の側の行為です。
私たちは、どうしても敵を愛したり、憎む者のために祈ることができません。けれども、神様が、イエス様がそのように私たちのために働いてくださったのであれば、そのようにされるということを示してくださっているのです。

イエス様の十字架とは、そのような私たち一人一人と神様との和解のしるしでもあるのです。罪深い私たち一人一人が神様の愛によって大きな報いを与えられ、赦されているという真実の出来事なのです。だからこそ、私たちは、敵を愛し、祝福を祈ることができるように変えられているのです。

初めにヨセフの話をいたしましたが、彼自身もおそらく兄弟に裏切られ、エジプトに奴隷として売られたこと一つとれば、兄弟を赦すことなど到底できなかったでしょう。
けれども、そのことが神様の確かさの中にあるということに気付かされた時、兄弟を赦すことができたのです。神様への深い信頼に立つとき、人間的な思いを超える神様の御心、御旨に気付かされていくのです。

この神様の働きが無ければ、おそらく愛することも、祈ることも、祝福の言葉もむなしいものとなってしまいます。けれども、私たち一人一人が本当に心から神様に信頼して、愛すること、祈ること、祝福することを願うならば、それは実現していくのです。
たとえ、人間的な思いであの人を愛するなど到底無理だと思っていても、変えられていくのです。この神様の大いなる業の中に私たちは置かれています。

この教えは、倫理的な規範では無いということが明らかにされます。これは神さまによって変えられる一人の人に起こる、神様の出来事なのです。私たちは、この神様の出来事の中に置かれています。
まさに、「遣わされた」という言葉が「置く」という言葉で表されているように、私たちは、一人一人がそのように神様の御手によって置かれ、神様によって愛し、祝福を祈り、祈る者とされている。この信頼に立って歩んでまいりましょう。


人生には様々な場面が与えられ、多くのことを経験します。その時にあって、自分の思いではなく、それにまさり神様が働いてくださり、導いてくださっているということを覚えてまいりましょう。このイエス様の教えには、そのようにされている人間の真実が語られているのです。この大いなる神様のお働きに感謝しながら今週一週間も歩んでまいりましょう。