2013年7月21日日曜日

7月21日 聖霊降臨後第9主日 礼拝説教

憐れに思い近づく

主日の祈り
主なる神様。あなたの民の願いに心を傾けてください。そして、私たちがなすべきことを悟り、喜んで行う力を与えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:申命記301-14節(旧)328
30:1 わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、 2 あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、 3 あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。 4 たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。 5 あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。 6 あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。 7 あなたの敵とあなたを憎み迫害する者にはあなたの神、主はこれらの呪いの誓いをことごとく降りかからせられる。 8 あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。 9 あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。 10 あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。 11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。 12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 13 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

第二日課:コロサイの信徒への手紙11-14節(新)368
1:1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、 2 コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 3 わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。 4 あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。 5 それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。 6 あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。 7 あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、 8 また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。 9 こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、 10 すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。 11 そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、 12 光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。 13 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 14 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

☆福音書:ルカによる福音書1025-37 節(新)126
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、わたしたちにあるように。アーメン。

さて、本日の福音書の日課は、非常に有名なイエス様のたとえ話のひとつです。おそらく、クリスチャンでない人もこのたとえ話を聞けば、おおよその内容が分かるくらいに有名なたとえ話かもしれません。
登場人物は、ある律法の専門家とイエスです。律法の専門家は「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエスに尋ねます。この問いの意味とは、生きる上でもっとも大切なことは何かということです。しかも、試そうとしてとありますから、おそらくこの律法の専門家にとっては、何か一つ答えが自分の中にあったのでしょう。

案の定、イエス様が逆に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返した時、旧約聖書の一説を引用し、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と回答します。
おそらく、周囲に居た人々は、最高の模範解答をこの人は、示した。と思っていることでしょうし、イエスに問い返され、すぐにこの律法の専門家が答えたことから、この専門家も自分で完璧な答えを示したと思っていたことでしょう。

イエスは、この専門家の答えに対して、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と答えます。イエスは、ここで専門家の答えの正しさを示したのです。確かにそうであると、そして、そうであるならば、それを実行しなさいと、さらにそれが永遠の命、先ほども言いましたように、生きる上でもっとも大切なことは自明である。あなたは分かっているではないかと言わんばかりの答えです。

しかし、ここで不可解な展開を福音は語ります。29節「しかし、彼は自分を正当化しようとして」とあるように、たしかに専門家は、正しい答えを言ったのに、何か焦っているように思うのです。それは何故でしょうか。
おそらく、彼は完璧な模範解答を示したと思っていました。けれども、このことをさらに強化し、自分は正しく行っているということを周囲の人々に示したかったのだと思いますし、また、それが具体的に誰かと聞くのです。

つまり、ここで具体的に「わたしの隣人とは誰ですか」と聞くということは、この掟には境界線がある、限界があるということを念頭にこの律法の専門家は、問い返しているということだと思います。
そこで、イエスは、たとえ話を語りだします。

ある人が追いはぎに合い、瀕死の状態で倒れていました。そこへ3人の登場人物がその人のそばを通ります。
まず、一人目は、祭司が通ります。エリコという所は、祭司の町でしたから、おそらくエルサレムでの祭儀や仕事を終えて、自分の町に帰るところであったのでしょう。しかし、この祭司は、「その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」とありますように、彼を見て見ぬふりをしたかのように通り過ぎていきます。
このことを読むと、私たちの普通の考え方からいくならば「なんて人だ」と思います。けれども、実は、このことは祭司という要職に就いている者にとってみれば、非常に正当な判断を下したことになります。

祭司は、ユダヤ教の祭儀を司る大切な役目を果たしていました。そのような人が、血に触れるということは、穢れを受けるということでありました。ですから、祭司にとっては、自分のなすべき仕事が果たせなくなるということを意味しています。それでは困るのです。たしかに、かわいそうな人だと思ったかもしれませんが、この祭司は、自分の仕事を果たすためにどうしても彼に触れることは能わなかったのです。
そして、それは次に登場するレビ人という人にも当てはまります。彼らもまた祭司が祭儀を司る際に、それを助ける奉仕を成す大切な役割がありました。ですから、その役目を果たすためには、自分が清らかな状態、穢れを受けるということは、考えられない状況だったのです。

いずれにせよ、この二人は、自分の大切な役割を果たすためにこの半殺しにされた人を見捨てざるを得ない背景があったのです。おそらく、このたとえ話を聞いている律法の専門家も、律法に精通しているわけですから、この二人の取った行動の正当性を理解していたことでしょう。ですから、この二人の取った行動は正しいと思っていたに違いありません。

しかし、イエスは3人目の登場人物を語り始めます。それは、サマリア人でした。サマリアびととは、ユダヤ人たちから見れば、忌み嫌うもっとも象徴的な人でした。異教の民と交わり、信仰的にも正しくないと思っていた人です。
しかし、このサマリア人が驚くべき行動をとるのです。
普段は忌み嫌い合い、決して交わることのないはずの、サマリア人が近づき、手厚く介抱し、宿屋まで連れて行き、当時の二日分の賃金であった二デナリオンを宿屋の主人に預け、足りなかったら帰りに払うとさえ言うのです。

これを聞いていた人々は、おそらく誰しもが驚いたに違いありません。まさかサマリア人が、ユダヤ人のためにそんなことをするはずがない。これまでの両者の対立を考えればそれは決してありえないことでした。
けれども、イエスは、そのようなたとえを示され、律法の専門家に問うのです。「隣人となったのは誰か」と。
ここに一つの真理が示されています。

最初、律法の専門家は、「隣人とは誰ですか」とイエスに問うたはずです。つまり、私の方を向いている人は誰か。私の隣人は誰かと問うことは、私を隣人のように愛してくれている人は誰かと、その対象を聞いていたのです。
しかし、イエスは、このたとえを話すことによって、「隣人となった」のは誰かと問うのです。
逆転がここに起こったということです。

その対象が、受動的な相手、私を愛してくれる人、私を隣人とみてくれる人を私たちは探し求めます。なぜならば、そういう人は、決して自分を嫌わないからです。そういう人は、一緒にいて楽だからです。居心地が良いからです。
私たちは、そのような決して裏切らない人を見出したくなります。そして、そういう人に対して、自分の良いと思うことをしてあげたいと思います。だからこそ、この時、律法の専門家は、「隣人を愛しなさい」という掟に対して、この良い行いをするべき人は誰かと問うのです。

けれども、イエスは、その問いに対して、そういう人を見出してから愛するということ、愛を受けたから、そのお返しに愛するということではなく、その隣人を自ら見出し、まずもって愛を注ぎなさいとこのたとえによって私たちに語りかけるのです。隣人とは、与えられるものではなく、見出すのであり、まず自らが誰かの隣人になるということを教えてくださっているのです。

私たちは、人を愛したり、良いことをしてやりたいと思う時、意識していても、していなくても、おそらく自分にとって居心地の良い人や、有益な人を対象にしてしまいます。
けれども、今日イエスが示してくださったこの「善いサマリア人」のたとえは、愛する対象は、この人であるという私たちが無意識に敷いてしまう境界線を乗り越える愛を示しているのです。

私たちは時として、この律法の専門家のように自分を正当化したくなります。祭司や、レビ人のように正しさを振りかざして、人を拒絶し、時には見捨ててしまいます。私たちは、そのような限界のある存在なのです。どうしても冷たくなってしまう時があるのです。私たちの普通の感覚からいえば、半殺しにされている人が居れば、救急車を呼んで、助けるだろうと思いますが、けれども、時としてそれができなくなってしまう実存をイエスは語ります。

そのような私たちに対して、イエスはあえて、隣人となりなさい、あらゆる私たちが引いてしまう境界線を乗り越えて、あなた自身が隣人となり、givetakeの関係ではなく、与える者となりなさいと言われます。
そのことに対して、私たちは難しさを覚えるかもしれません。けれども、その模範となってくださったのもまたイエスご自身です。私たちはどこまで行っても人を愛せなかったり、罪を犯し、神のみ前において見当違いなことをしてしまいます。けれども、イエスはそのようなどうしようもない私たちのためにご自身を捧げ、私たちの罪を贖ってくださいました。無償の愛を示してくださいました。

この境界線の無い愛を私たちもまた人々に注ぐことができるようにと祈りながら歩んでまいりましょう。まさに本日の主日の祈りである「主なる神様。あなたの民の願いに心を傾けてください。そして、私たちがなすべきことを悟り、喜んで行う力を与えてください。」という祈りは、私たちの真実の祈りそのものです。この祈りを絶えず口ずさみながら、神の導きによって、神のみ助けによってなすべきことを成せるように、私たち一人一人が人々の隣人となれるようにと願いながら歩んでまいりたいと思います。


望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって、わたしたちを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。

7月14日 聖霊降臨後第8主日 礼拝説教

主の御国を告げ知らせる

主日の祈り
私たちの造り主、救いの神様。新しい祭司の群れに入れられた私たちが、誠実にあなたの召しに応え、福音の証し人として、あなたの約束を全世界に告げ知らせる者にならせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:ヨナ書41-11節(旧)1447
4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。 2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。 3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」 4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。 6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。 7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。 8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」 9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」 10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

第二日課:ガラテヤの信徒への手紙52-26節(新)349
5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。 3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。 4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。 5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。 6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。 8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。 9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。 10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。 11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。 12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。 13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。 16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。 22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

☆福音書:ルカによる福音書951-62 節(新)124
9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。 52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。 53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。 54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。 55 イエスは振り向いて二人を戒められた。 56 そして、一行は別の村に行った。 
57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。 58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」 61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、わたしたちにあるように。アーメン。

今日の福音書の箇所の始めを見てみますと、イエス様は、「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」とあります。天に上げられるとは、受難の道を意味します。言葉から考えるならば、召天の出来事を思いますが、その道のりの途中には、十字架の受難、そして、復活の出来事があります。
つまり、イエス様はいよいよ人間の救いのために決心をされた場面なのです。
私たちも何かをしようと思い立つとき、決心をいたします。それが大きな出来事であればあるほど、その決心は相当の覚悟と肝をすわらせなければなりません。

しかし、このイエス様の決心の直後に起こった出来事は、「サマリア人から歓迎されない」と題されたように、人々から受け入れられない出来事から始まります。まさに出鼻をくじかれるような出来事なのです。
ここにおられる人の中にもまた何か決心をしたときに、そのような経験をした方というのは、いらっしゃるのではないでしょうか。私自身もそのような経験を何度かしたことがあります。

イエス様がここで受け入れられなかったのには、歴史的な背景があります。ご存知の方も居ると思いますが、ユダヤ人とサマリア人は、非常に仲が悪かったのです。
なぜならば、それはアッシリアがサマリアの住民を追放してその代わりに民族的にも宗教的にも異なった民族を移住させた時代にまでさかのぼります。そのような中でサマリアでは、他民族との混血の人が生まれるのです。二つの背景を有しているこの混血の人々は、他国の宗教の信仰と、ユダヤ教の信仰を結び付けて一つの宗教をはぐくんで行きました。この渾然一体となった宗教が不純であるということでユダヤ人たちは、サマリアの人々を嫌いました。そして、サマリアの人々もユダヤの人々を嫌うようになっていったのです。

そういう非常に根の深い対立も相まってイエス様は、サマリアの人々から歓迎されずに、その町を通過することになってしまったのです。ここに登場するサマリアの人々は、そういう自分たちの歴史、つまり過去の対立に心を奪われてしまっていたのです。そして、それによって神様の御救いの出来事が近づいているということに気付くことができなくなってしまっていたのです。

私たちは、いま聖書を読む会の中で詩編を読み進めて学びを深めていますが、先ごろ学んだ95編にもそのことについて記した御ことばが登場いたします。それは「心を頑なにしてはならない」という御ことばです。私たちは、この神様の御救いを柔らかな心で受け止めていきたいと思います。けれども、時としてそれができなくなってしまう。まさにこのサマリア人のような心持になってしまう時があります。

けれども、イエス様は、そのような出鼻をくじかれる出来事に出会っても、エルサレムへと向かわれる歩みは止めませんでした。なぜならば、イエス様は、救いをどうしても成し遂げたかったからです。そして、それはすべての人々の救いとなるのです。

イエス様のお姿、教えから見るならば、井戸で姦通の罪を犯した女性が今にも石打の刑に処せられようとしている時、イエス様が「罪を犯したことのない者が彼女に石を投げよ」と言ったとき誰もその女性に石を投げることができずに、その場から去って行きました。しかし、ただお一人イエス様だけは、その場に残っておられました。なぜならば、イエス様は罪を犯したことが無いからです。本来であればイエス様は、その女性に石を投げる権利があります。けれども、イエス様はそうはなさらず、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」とおっしゃられました。

つまり、イエス様は、過去のことは、たとえそれが姦通という大きな罪を犯していたとしても、イエス様は深い赦しでその人を癒し、現在のその人を肯定し、未来へと歩みだす力を与えてくださるのです。救いとは、そういう私たち一人一人のすべてを包み込んでくださるものなのです。

本日の第一日課におけるヨナの物語もそのことを語っています。ヨナは、初め神様からニネベに行って、私の預言を民たちに語れと命じられます。しかし、ヨナは、怖れを抱き、ニネベとは全く逆の方へと行こうとします。しかし、途中で船が難破し、大きな魚に飲まれます。そして、ヨナが悔い改めたとき、魚はヨナを吐き出し、吐き出したところからヨナはニネベに向かうのでした。

ヨナは、そこで一所懸命に神様の預言を語ります。そして、ニネベの人々はヨナの言葉を受け入れ、王も民もそして、家畜も悔い改めたのです。そして、神様はニネベへの災いを思い直されたのです。そのことにヨナは、深い落胆と、怒りがこみ上げたというのが今日の第一日課です。
しかし、ヨナの神様の御ことばの宣教は、大成功に終わったのに不満を抱くのは何故でしょうか、それは、ニネベがアッシリアと言う他国であったからです。ヨナがニネベに行くのを嫌がったのは、そういう他国のためになぜ救いの預言を伝えねばならないのかと言うことでした。
たしかに、ヨナの言い分は分からないわけではありません。私たちもまた、にくい人や、嫌いな人のためにグッドニュースを伝えるのは、何か心にとがめる思いが去来します。
なぜ、敵国の人々のために私がそんなことを伝えなければならないのか。何故神様は敵国を救われたのか。様々な思いがヨナに去来したのです。

この思いは、おそらく福音書に登場したヤコブとヨハネもそうだったのでしょう。おそらく、彼ら弟子たちもイエス様が何かなみなみならない決心をされたということは、近くに居て感じ取ったのでしょう。けれども、そのようなイエス様を受け入れないとはどういうことか?と思ったに違いありません。
ヨナも、ヤコブとヨハネも、神様の御救いについて待ち望んでいる一人であります。そして、この3人の神様に召された者たちは、相矛盾した姿をさらすのです。
一方は、何故敵国のくせに神様の救いに与ることができるのだという怒り。もう一方は、神様の救いを拒否するとはなんということだという怒り。どっちなのだと言いたくなりますが、しかし、これが人間の本質なのです。こういう矛盾を私たちは常にはらんでいるのです。

しかし、イエス様は、神様は、そのような私たちの矛盾など意に介しません。
イエス様も、神様もその思いは、ただ単純に救いたいという思いです。
むしろ、イエス様が救いの道、すなわち受難の道を歩まれる決意を固められ、そして、望まれたことは、このいかなる場合においても頑なになってしまう私たちのための救いだったのです。
その対象が誰であれ神様は、滅びを望んではいないのです。ただ純粋に、一心に神様は私たち人間すべてを救いへと導きたいと望んでおられるのです。

第一日課の最後のヨナに臨んだ神様の最後の御ことばがそのことをありありと物語っています。
「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万二以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
ここに出る「右も左もわきまえぬ人間」というのは、直訳するならば「右も左も分からない人々」となります。つまり、それはいまだに道も分からずに右往左往して、苦しんでいる、路頭に迷っている人、そして、何よりもまだ神様の御救いに出会っていない人々なのです。

神さまは、そのような人々を捨て置くことは出来ないのです。
神さまの御救いは、すべての人々のためにもたらされています。神様は、御救いの福音をすべての人々に伝えたいと心から願い、悔い改めを待っています。
私たちは、その御救いの福音を聞き、神様の深い愛に気付かされた者の群れです。そうならば、何故この平安を、安心を、励まし、癒しを伝えずにいられるでしょうか。私たちは、この喜ばしい御ことばを伝える者として召されているのです。時として、様々な矛盾を抱えなければならないこともあるかもしれません。
けれども、恐れずにこの福音をすべての人々に伝えていきましょう。

神さまご自身が、そう望んでおられ、イエス様ご自身もまた望んでおられ、私たちのために十字架に架かってくださり、復活し、永遠のいのちの希望を与えてくださったのです。これは愛です。
そして、この愛は、私たちの在り様がどうであれ貫かれている愛です。
私たちは、この愛に生かされています。この愛を携えて、この下関の地で福音の伝道に共に励んでまいりましょう。


望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって、わたしたちを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。

2013年7月8日月曜日

7月7日 聖霊降臨後第7主日 礼拝説教

主日の祈り
すべてのものの造り主なる神様。あなたはみ手を差し伸べ、全世界の民をみ国に招かれます。あなたが世界の隅々から、弟子たちを召し招かれるとき、「み子イエス・キリストは主」と、大胆に告白する者の群れに、私たちを加えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

聖書日課
第一日課:ゼカリヤ書127-10節(旧)1492
12:7 主はまずユダの天幕を救われる。それはダビデの家の誉れとエルサレムの住民の誉れが、ユダに対して大きくなりすぎないようにするためである。 8 その日、主はエルサレムの住民のために盾となられる。その日、彼らの中で最も弱い者もダビデのようになり、ダビデの家は彼らにとって神のように、彼らに先立つ主の御使いのようになる。 9 その日、わたしはエルサレムに攻めて来るあらゆる国を必ず滅ぼす。 10 わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。

第二日課:ガラテヤの信徒への手紙323-29節(新)346
3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。 24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。 25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。 26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

☆福音書:ルカによる福音書918-26 節(新)122
9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」 20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」 21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、 22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」 23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。 26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。

【説教】
本日の場面は、9章の丁度中盤にあたる場面です。では、この与えられた福音書の日課の前段には何が記されていたのでしょうか。9章の頭から見てみましょう。
まず、初めに1節からは、12人の弟子たちを派遣するという場面から始まります。イエス様が12人の弟子たちを呼び集めて、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わす」とあるように、イエス様がそのお力を弟子たちに授けて、遣わした場面です。
そおして、この宣教の旅は成功に終わります。なぜならば、6節には「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」とあるからです。

そして、その次には、ヘロデがイエス様の噂を耳にして戸惑いを見せます。周囲の人がイエス様のことを様々な旧約の偉大な預言者として形容したり、自分が首を刎ねたはずのヨハネだという人も居たからです。彼にとって、イスラエルを統治すること、領主としての権威は失い難いものでありましたから、そんな人が現れては、自分の地位が危ぶまれるのではないかという言い知れぬ恐怖が襲ったことでしょう。私はつくづく思いますが、権力を手に入れたものの宿命と言えるかもしれません。そういうことに心がすっかりとらわれてしまうのは、大変不幸なことであるように思えてならないからです。

そして、さらに今日の福音書の直前には五千人に食べ物を与えるという、非常にイエス様の物語において有名な出来事が記されています。まず、派遣していた弟子たちがイエス様の許に戻ってきます。
おそらく、弟子たちは意気揚々とイエス様の許に戻ってきたことでしょう。私たちのイエス様は素晴らしい、この人についていくことは正解だった。この人こそイスラエルを救う偉大な人になると思ったに違いありません。

そして、ベトサイダという町に退かれますが、群衆がイエス様たちについてきて、病気を癒したり、神の国について語ったとあります。そして、夕刻になろうとしている時、弟子たちがご飯をそれぞれに取ってもらうために群衆を解散させようとしますが、イエス様があなたたちがなんとかしなさいとお命じなりますが、自分たちに二匹の魚と五つのパンしかない、無理だとイエス様に言うのです。しかし、イエス様は、それを祝福し、群衆に配るとすべての人々が満腹するほどになったという奇跡が起こります。
イエス様のみ力、御ことばの力に弟子たちは、感動と驚きを抱いたと思います。おそらく、私たちもそのことを目の前にしたならば、大きな感動と驚きを抱くに違いありません。そして、イエス様はなんて素晴らしいのだと思うに違いないと思います。

というように、今日の福音書の前段において、イエス様の様々な力が発揮された結果の民衆や弟子たち、そして、支配者の心が描かれています。弟子たちにとっては、この人こそ誰よりも素晴らしい私たちの先生であり、預言者であると心に抱いたことでしょう。民衆たちは、この五千人に食べ物をお与えになるイエス様を見て、遂にエルサレムを敵の手から導く偉大なダビデのような人が現れたという期待を抱いたかもしれません。そして、とうのヘロデにとっては、自分を脅かす者が現れたという言い知れない恐怖心、猜疑心が心に思い浮かんだのです。

そのような様々な人々の反応をイエス様は感じ取り、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか。」と弟子たちに尋ねます。弟子たちは口々に様々なことを言います。ここで注目したいのは、弟子たちがイエス様を誰かと言っている言葉が前段のヘロデが戸惑う場面とほとんど一緒なのです。
つまり、多くの奇跡に与ってきた群衆にとって「イエス様はこれだ」という確信、共通の理解を示すことができていないのです。
未だにイエス様は、正体のわからない人、けれども間違いなく素晴らしい人である。エリヤのような預言者であるという期待。洗礼者ヨハネのような人だという期待。昔の預言者だという期待。様々な人に形容してイエス様をイスラエルにとって間違いなくプラスになるに違いないと考えていたのです。

そのような言葉を聞いてからイエス様は、改めて弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と聞きます。ここでイエス様は、かなり強い言葉を弟子たちに向けています。と、言うのは、「何者だと言うのか」という、箇所は、直訳するならば「何者だと断言するか・宣言するか」と問うているからです。つまり、イエス様は、これまでの様々な出来事を通して弟子たちがイエス様をどのような方か宣言することを促しているのです。

それまでは、イエス様は御自身が誰であるかということを明言しませんでした、けれども、ここでそう問うということは、初めてイエス様の正体が明らかにされるのです。その問いに対してペトロは「神からのメシアです」と答えるのです。いわゆるこれは、信仰告白です。私たちも使徒信条や、ニケや信条といった信仰告白でそのことを告白しています。ペトロたちは、ほかの群衆とは違い、イエス様をメシアだ、救世主であると断言します。

様々な事柄を目の前で見てきて、そして、ペトロをはじめ12人の弟子たちは特に、9章の始めに派遣され、病気を癒す力を授けられ、福音を語る力をいただき、方々で宣教し、その結果があまりにも手ごたえがあったために、そういう確信に至ったのです。この告白は、私たちから見ても大変すばらしいものです。さすがペテロ、イエス様の一番弟子だけあると思うのです。そして、それは確かに正解と言えば正解です。私たち自身もそのことを信じているからこそ、信仰告白をいたします。「私たちの主イエス・キリスト」と祈るのです。

けれども、イエス様は、そのような100点満点に思えるペトロの答えを聞いて、続く21節では「戒め、このことをだれにも話さないように命じて」とあります。何故なのでしょうか。
ここで注目したいのは、戒めるという言葉です。この言葉はギリシャ語で「エピティマオ epitimao」と言います。この言葉は、「エピ epi」と「ティマオtimao」という言葉から作られた言葉です。そして、「エピ」という言葉には、「反対に」「~上に」という意味があります。そして、「ティマオtimao」という言葉は、「自尊心」という意味があります。
つまり、戒めるということは、自尊心の反対の事がらを言うということであり、自尊心の上に覆いを被せるということです。
つまり、このペトロの信仰告白とは、そういったこれまでの成功体験からくるいわば、栄光、力、素晴らしさというものからくる信仰告白だったのです。私たちのイエス様は素晴らしい力を持っている、栄光の力に満ちている方だという思いだったのです。このことは、言ってしまえばヘロデと一緒です。ヘロデもまた、素晴らしい力を持ち、栄光に満ちているイエス様を知ったからこそ、イエス様を恐れ、危険視したのです。イエス様に対する思いのベクトルは違っても根幹は一緒だったということです。

そのような弟子たちにイエス様は、大変ショッキングなことを伝えます。しかし、それがイエス様がメシアたる本質を顕す御ことばだったのです。
私たちも救世主と言う言葉を聞くと、何か素晴らしい人を想像します。私はサッカーが大好きですが、試合観戦をしていて応援しているチームが窮地に陥っている場面で、交代した選手が活躍して、逆転などをするとあぁあの選手は救世主だと思います。弟子たちも、この思いだったのです。自分たちの置かれている社会的状況、旧約聖書に約束されている救世主とは、素晴らしい力強い方だと。

9章の始めから続く物語においては、そのような偉大な力を示すイエス様の姿が描かれていますが、弟子たちはすっかりそのことに心を囚われてしまったのです。たしかにイエス様はメシアでありますが、そのような栄光に満ちた姿で救いをもたらしてくださる方ではないのです。
「それはダビデの家の誉れとエルサレムの住民の誉れが、ユダに対して大きくなりすぎないようにするためである。」と本日の第一日課で語られているように、イエス様の御救いの出来事とは、決して私たちの自尊心を駆り立てる方ではないのです。イエス様が戒められたとある先ほど申した通りです。

私たちがイエス様はメシアであると告白する時、そこに見るイエス様の姿は、あの十字架に架かられた弱々しく、このお姿のどこに救いなどあるのかという所に見るのです。
私たちは、すぐに栄光、誉れ、喜び、力ということに心を奪われてしまいます。しかし、イエス様はそうではないとおっしゃっています。今日与えられた福音書において初めてご自分がメシアであるということを明らかにしたと同時に、十字架の受難を語られたということは、私たちに十字架を見よ、あの苦難の姿を見よというのです。
そして、その十字架の意味を深く信仰によってとらえよと言っているのです。


今日、与えられた福音書に響く神様の福音とは、この十字架を見よというメッセージです。私たちはこの御ことばを受けて、今一度、イエス様がメシアであると告白するものとして、何を見てそのことを告白するのか、信仰に刻んでいるのかと問いつつ、真剣になって御ことばに聴いてまいりましょう。