2013年8月1日木曜日

7月28日 聖霊降臨後第10主日 礼拝説教

必要なことは一つだけ

主日の祈り
恵みの神様。多くのことに心を煩わされている私たちが、あなたの教えに耳を傾け、欠くことのできない、ただ一つのものを選び取ることができるように助けてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:創世記18:1-14 (旧)23
18:1 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。 2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、 3 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。 4 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。 5 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」 6 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」 7 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。 8 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。 9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、 10 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。 11 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。 12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。 13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。 14 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」

第二日課:コロサイの信徒への手紙1:2129 (新)369
1:21 あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 22 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。 23 ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。 24 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。 25 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。 26 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。 27 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。 28 このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 29 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。

福音書:ルカによる福音書103842 (新)127
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、わたしたちにあるように。アーメン。

今日読まれた「マルタとマリア」という物語も聖書の中では、比較的有名な物語です。
イエスは、この時点でエルサレムへと歩みを進めています。その途中で、マルタとマリアと言う姉妹の家に立ち寄ったのです。「迎え入れた」とありますから、おそらくイエスの様々な所業、言葉を聞き、ぜひとも自分の家に来てほしいと願っていたのだと思います。

ここで非常に興味深い言葉に私たちは出会っています。
それは、「迎え入れた」という言葉です。この言葉は、ギリシャ語でも「客を迎え入れる」という意味もありますが、厳密に直訳気味で訳すと「受け入れる」という意味があります。
この時のマルタの心情は、客としてイエスを迎えて、もてなすという意味以上の意味があったということです。
すなわち、この時マルタがイエスを家に迎え入れたのは、イエスのこれまでの宣教の業、御ことばを受け入れていたということなのです。イエスのことをマルタは、救世主、メシアである信じていたということです。

そのような方を迎え入れ、もてなしをできることは、大きな、大きな光栄を与えられたのと同じです。
主である方を迎え入れたのであれば、それ相応のもてなしが必要であろうと思うのは、至極当然のことであります。マルタはせっせと立ち働いていたというのは、わたしたちにも理解できることです。
考えてみてください。もし、今みなさんのもとにイエスがやってきたら、自分の家に迎えたいと願うでしょう。そして、できうる限りのもてなしを用意すると思います。
彼女のしている行為は、常識の範囲において、大変優れていて、相応しいことをしたのです。

そのようにせわしなく立ち働いていたマルタに対して、本日の福音書においては、もう一人の登場人物が居ます。しかも、それはせわしなく立ち働くマルタと比べて非常に大きなコントラストをさせています。
妹のマリアです。
マリアは、イエスが自分の家に来てくださったとき、イエスのためにもてなしの準備をするどころか、イエスの「足もとに座って、その話に聞き入っていた」とあります。このマリアの姿が後にイエスの目に留まり、「マリアは良い方を選んだ」とまで言わせるわけですが、なぜそのような御ことばを彼女が受けたのか。そのことを見てまいりましょう。

当時客人が来た時に、働くのは女性の役目でした。
常識的に考えればマリアの行動は、相応しくない態度でした。客人のためにもてなしをするわけでもなく、ただイエスの足もとに座っていたのですから、マルタがイエスに対して「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と申し立てるのは、当然の訴えです。
おそらく、この物語を聞いたユダヤ世界の人々もまた、マリアの態度に対して疑問を抱くことでしょう。

しかし、イエスは、彼女の行いを評価します。それどころか、マルタが一心にイエスのためにもてなしていることをいさめます。一所懸命に自分のために働いているマルタに、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」というのです。
最初に言いましたように、この時、イエスを迎え入れた、受け入れたのは、マルタ自身です。しかし、そのようなマルタに対してイエスは、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」というのです。

そして、むしろマリアの方をほめるのです。当時の一般常識からすれば、このイエスの一連のマルタとマリアに対する御ことばを聞いたならば、ある人はカチンとくるかもしれません。イエスを受け入れたのは、マルタではないか。そのために一生懸命働いている、奉仕しているにもかかわらず、何もせずただイエスの足もとで話しを聞いているだけのマリアのどこが褒められようかと。

しかし、このことが私たちの考え、人間的な観念にとらわれているということであると思います。私たちは、正しさや、人間的な慣習に心を囚われてしまいます。それは、普段生活の中であればより顕著になるのではないでしょうか。
日々の家事や仕事などに追われる日々で、あわただしく一週間を過ごしてしまうということも覚えがあるかもしれません。イエスの御ことばが語られているにもかかわらず、そのことに耳を傾けることを忘れ、そのようなものに追い立てられてしまう。マルタのように、イエスを、神を信仰によって受け入れた、迎え入れたはずなのに、いつの間にかマルタのようにせわしなく過ごし、イエスの方を見ずに、イエスの御声に耳を傾けずに過ごしてしまうのです。

今日の福音は、そのような私たちに対して、イエスが本当に生きる上で大切なことを教えてくださっているのです。
それは、マリアの態度に示されています。「その話に聞き入っていた」という御ことばです。
「その話」と言うと、何か漠然としたもののように聞こえます。しかし、この一文を原典に戻って聞くと、それは非常に明確なことにマリアが耳を傾けていたことが分かります。
この部分では、「ロゴス」という言葉が使われています。しかも「ロゴス」という言葉だけならば、何かあやふやな言葉と言うことになりますが、この箇所においては、ロゴスに定冠詞がついているのです。つまり英語でいうならば「The word ザ・ワード」と言うことになります。つまり、ここで語られている言葉は、明確な言葉を意味しています。

ここでマリアが耳を傾けていた「話」とは、何かあやふやな忘れてしまいそうな、消えてしまいそうな言葉ではなく、明確で誰がはっきりと語ったか分かる言葉なのです。そして、それは言うまでもなく、主の御ことばです。
ですから、ここで語られる「ロゴス」とは、神のことばであり、不変の言葉です。
いま、この二人にその力強く、確かな御ことばが臨んでいるのです。
私たちはこのことに目を向けねばなりません。

イエスの御ことばは、今、そして、いかなる時でも私たち一人一人のもとに臨んでいるのです。つまり、それは私たちの中心にイエスが臨んでいるということです。
私たちは、そのことに気付いているでしょうか。おそらく、多くの人はこのマルタのようにせわしなく働き、そのことに気付かずに過ごしてしまいます。イエスを受け入れながら、イエスが共に居てくださるということを信じながらも、日々の事がらに追われ、日々変わる世の中の状況に翻弄され、何が真実の言葉か、何が本当に大切なことか忘れてしまうのです。

しかし、確かにイエスは、わたしたちと共に居てくださいます。イエスが天に帰られるとき、「祝福しながら」とあるように、いつまでもイエスのみ言葉を中心とした、恵み、喜び、幸い、導きは、私たちの内に注がれています。
今一度、このマルタとマリアの物語を通して、イエスは、私たちにそのことを語りかけています。
イエスが「それを取り上げてはならない」と言うのは、まさにこのことです。イエスの御ことばを、主の恵みを私たちの思いや、煩いで覆い隠してはならないのです。

神は、私たちの思いも、煩いも、心捕らわれていることもご存知です。そのことを恐れずに神の御前に差し出していきましょう。そして、じっと神の御声に耳を傾け、み旨が何なのか聞いてまいりましょう。
本当に大切なことは必ず示されます。そのことを信じて歩んでまいりましょう。

そして、それは宣教の業においてもそうです。私たちの暮らす日本社会におけるキリスト教の立場、状況は、非常に厳しい中にあります。けれども、そのことに思い煩ったり、心を囚われる必要はないのです。神が必ず備えてくださいます。私たちになすべきことを示してくださいます。私たちは、神に一心になり生きていくことだけです。

アブラハムに主の御使いが臨み、サラに男の子が与えられると告げたとき、思わずサラは笑ってしまいました。年老いた自分を見つめ、常識的に考えればありえないからです。しかし、御使いは、「主に不可能なことがあろうか」と告げます。主の御ことばは、必ず現実となります。必ず成されるのです。憂いを抱きつつ生きてしまうような世にあって「涙はことごとく拭われ」、大いなる喜びがわたしたちを覆う日が必ずやってきます。

この大いなる約束、主の御ことばに信頼しつつ、他の何ものでもなく、この一つを大切にして信仰に刻んで歩んでまいりましょう。


望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって、わたしたちを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。