2013年12月29日日曜日

12月29日 降誕後主日礼拝 説教

「預言の成就」


主日の祈り
この聖なる夜を真の光で照らされる全能の神さま。私たちを、この地上でみ子の臨在の光のもとに歩ませ、終わりの日に、その栄光の輝きに目覚めさせてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書63:7-9
63:7わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を/主がわたしたちに賜ったすべてのことを/主がイスラエルの家に賜った多くの恵み/憐れみと豊かな慈しみを。8主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。9彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。

第二日課:ガラテヤの信徒への手紙4:4ー7
4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。5それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。6あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。7ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

福音書:マタイによる福音書2:1323
2:13占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。18「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」19ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、20言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」21そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、23ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日語られている福音書の出来事は、イエスがお生まれになったのちの出来事を覚えています。しかし、これらの出来事は、一つの言葉によって締めくくられています。それは「預言者を通して言われていたことが実現する」という御ことばによってです。つまり、イエスの誕生の出来事も旧約聖書の預言が成就するためであったというマタイの記述がありますが、まさにこれらのヨセフ、マリア、イエスという家族に降りかかる災厄、苦難はかねてから神によって定められていたことであるということです。

ですから、今日私たちは、先日のクリスマスにおいてイエスのご降誕を祝いましたが、2013年最後の主日において読まれたこの聖書日課に思いを巡らし、この神によって定められていた出来事が何を意味するのかということをとらえ、「預言が成就するためであった」という御ことばの意味することに聴いていくことは大切なことであると思うのです。

さて、これはキリスト教の出来事において「聖家族の逃避」というように題されている出来事です。この時、イスラエルを統治していたヘロデが、占星術の学者たちに騙されたことに気づき、大激怒をしたというのです。そして、そのことによってベツレヘム周辺の2歳以下の男の子たちが一人残らず殺されたとあります。この出来事は、まさに人間の強欲という事がらが前面に出ている出来事であると思います。
つまり、ヘロデは自分の王位としての権威が失われることに以上とまで言われるような怖れを抱いていたのです。自分の地位を守るためならば人を人とも思わない事柄をたくさんヘロデは行いました。
この男の子たちを残らず殺したという出来事以外にも、自分自身の子どもたち3人もまた同じようにして。自分の地位を脅かす危険な存在とみなして殺してしまっています。

このようにして、イスラエル全体は非常に暗い雰囲気が支配していました。自分の地位と名誉のためであれば何でもするという恐ろしい主君のもとで領民自身非常な恐れの中にあったということです。つまり、イエスは決して楽な時代ではなく、大きな怖れと、不安のただなかにお生まれになったということです。
先日のクリスマスの説教の中でも申しましたが、イエスはそのような暗い、暗黒に光として現れてくださったのです。それは、時代背景故の暗さだけではなく、人々が抱えるあらゆる暗闇に満たされて不安な心に光として宿られたということです。

つまり、イエスは、あえてこの苦難の時代に神から遣わされたのです。
主なる神が旧約の時代に預言していたことが実現するためであるとおっしゃっていたとしても、何もそこまでしなくともと思うかもしれません。もっとイエスの事が受け入れられやすい時代に遣わせばよいのではと思うこともあるでしょう。
しかし、神はそれを良しとしなかったのです。
人々が本当に大きな苦しみを負い、止まることのない悲しみの涙を流さねばならなかった時代にあえてイエスを遣わさねばならなかったのです。それが神と私たち人間一人ひとりとの間に交わされた約束だったからです。

なぜならば、この「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という御ことばに既に顕されています。と言いますのも、この御ことばは三人称単数で語られています。つまり、この預言の成就において、そこには人間の一切の期待や、希望が聞かれるのではなく、神ご自身の意思が働いているということです。
預言が成就するためには、神の意志が働かなければそれは成しえないのです。さらに、ここで語られている「実現する」という御ことばは、完成を意味します。
つまり、このイエスが、苦難を味わうこと自体、神のみ救いの出来事の完成を意味しているのです。

イエスご自身がこの苦難を通らなければ、神から与えられた救いのみ業はならなかったということを意味しているのです。イエスのみ救いの出来事がより鮮やかに私たちに力強く響くために必要な苦難であったということです。
つまり、神の子イエスは、その誕生の時から既に苦難を負い、しかもあえて苦難を味わわれたということなのです。
私たちは、聖書を読み進めながらイエスご自身が荒野での誘惑や、宣教の間に命を狙われたりいたします。

イエスご自身が、あえて人間が抱える暗闇の根源の出来事を経験してくださった、悩み、苦しみ、涙のわけを本当に親身になって理解してくださっているということをこの出来事は示しているのです。
何か、どこからからか素晴らしい力を発揮していく神ではなく、ご自身人間となられることによって、徹底的に私たちの抱える事がらに目を留めてくださったのです。
今日与えられているイザヤ書の日課にあるように神は私たちに多くの恵みと、憐れみと、慈しみを与えてくださっているのです。そして、そのことが何か漠然としたことではなく、歴史に働いているということから見ても、それは具体的な私たちの苦しみ、嘆き、涙、悲しみに、働いているということを今日の福音は私たちに伝えてくださっているのです。

ですから、イエスの救いの出来事とは、2000年も前の出来事にとどまるのではなく、私たち一人一人の抱く具体的な思いに応え、寄り添い、深い憐れみと慈しみをもってもたらされている出来事であるということです。
そして、そのことがらには時を要しました。多くの人間を救うのであれば、言い方が悪いかもしれませんが、ポッと現れて大人の姿で成し遂げればいいように思います。
しかし、あえて神はイエスを幼子としてこの世に遣わします。そして、その時が来るまでヨセフとマリアのもとで育っていきます。つまり、このイエスの家族たちもイエスが救い主であられるということを深くその心に受け取っていったわけですが、決して性急に神の物事を推し量るのではなく、イエスと共にあって、その苦難を経験したということです。

ともすれば、私たちは、苦しみや悲しみを味わう時、早くこの状態から抜け出したいと結果を急ぎます。現代にあってはなおの事そういうスピードが求められているように思います。そして、自分の苦しみや悲しみが早急にやわらげられなければ、その事がらを信用しないという空気感が流れてしまっています。おそらく、この時のイスラエルに住む人々もこのような暗黒の時代、不安から一日でも早く解き放たれたいと望んでいたでしょう。まさに今を生きる私たちと同じです。しかし、神はあえて待たれました。その時が来るのを、イエスにも人々にも示されたのです。
神にとって千日は一日のようだと聖書は語っていますが、まさにこの神の時を私たちは信じて歩むことが重要なあり方であると思います。神ご自身が、本当につぶさに私たち一人一人の苦しみを見抜き、その身に感じ取ってくださっているということに信頼し、そして、本当に来たるべき時に本当の救いがもたらされるのだということを信じていければ、苦しみ、悩み、悲しみの中にあって揺らぎの少ない命の在り方を生きることができるのではないでしょうか。

この時にあってもわたしの抱える思いにイエスご自身も、私たち一人一人と同じように苦しみを負い、担い、私たちの思いに寄り添ってくださっているのです。そして、本当に来るべき神の時があるということに信頼し生き抜いたのです。私たちもこの性急な時代にあって、神の時があるということを深く心に悟りながら、慌てふためき、混乱するのではなく、イエスが待たれた時に共に参与している恵みを思いつつ歩んでまいりましょう。

私たちは間もなく新しい時を迎えますが、新しい年もまたどのような事柄が私たちを待ち受けているか分かりません。時にたじろぎ、慌てふためき、性急な救いを求めてしまうこともあるかもしれません。しかし、その時に立ち止まり、神の時に参与している恵みを思い起こしながら歩んでいければと思いますし、また暮れようとしているこの2013年も実は、そのような神の時の中に私たちは生かされていたということ、来るべき時のためにイエスがわたしの苦しみをつぶさに感じ取り、共に担ってくださっていたということに思いを留めながら、新しい年にお会いしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


2013年12月24日火曜日

12月24日 クリスマス・イヴ燭火礼拝 礼拝説教

「主の栄光が世を照らす」


主日の祈り
この聖なる夜を真の光で照らされる全能の神さま。私たちを、この地上でみ子の臨在の光のもとに歩ませ、終わりの日に、その栄光の輝きに目覚めさせてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書9:16
1闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた2あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。3彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。4地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。5ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。6ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。7主は御言葉をヤコブに対して送り/それはイスラエルにふりかかった。8民はだれもかれも/エフライム、サマリアの住民も/それを認めたが、なお誇り、驕る心に言った。9「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き/桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう。」

第二日課:テトスへの手紙21114
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。

福音書:ルカによる福音書2:1-20

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

皆さんクリスマスおめでとうございます。
いよいよこの日、私たちの救い主であられるイエス・キリストが誕生をいたしました。この大いなる喜びを共にできますことを本当に嬉しい気持ちでいます。
このひと時、御ことばの説き明かしによってイエスがこの世にお生まれになった意味を改めて私たちは確認して行きたいと思うのです。

さて、このイエス・キリストは、救い主であられるということをキリスト者である人たちは、信じています。
では、何故イエスが救い主なのでしょうか。私たちはこのことをハッキリととらえていなければ、イエスが救い主であるということの恵みの半分を失うことになるでしょう。
そして、救い主という言葉を聴くとき、偉大な王様を思い浮かべるならば同様に私たちは、イエスが救い主としてこの世にお生まれになった意味を失ってしまうでしょう。

今日初めに見ていきたいのは、イザヤ書の預言の御ことばです。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」とイザヤは預言しています。まさに私たちの今生きる時代は、この暗闇の中にあるのではないでしょうか。たしかに東京でオリンピックが開催されることが決まったり、何となく経済が上向きになっているように見えて、未だに東日本大震災の被災者たちの悲しみの声は癒えていませんし、この人だと信じていた政治家たちの不正が発覚したり、もっとマクロに見るならば、未だにこの寒空の下、この日本においてもこの寒空の下で暮さねばならない人を私たちは知っています。
決して明るいとは言えない社会状況、時代状況の中にいるように思ってなりません。また、そのような状況の中にあって、今という事がらに必死で前を向いて歩くこともままならないような状況です。

イエスが誕生した当時もまたそのような暗い状況にあった時代でした。先代の王である父ヘロデが死に、その後は兄弟同士が血で血を争うような時代でした。そして、そのような内政状態に加え、周辺諸国からの圧力も加わり、民衆は不安と怖れの中にありました。具体的に言うならば、重い税がローマと、当時イスラエルを支配していた総督から二重に課されたりし、人々は抑圧の中に有ったのです。
そのような状況の中にまさに光として輝いて来られたのが、イエスなのです。イエスは、私たちの抱えるあらゆる暗闇の中で輝く光として、私たちのもとに来られたのです。そのことをイザヤは預言しているのです。

少し私たちと申しますと少し漠然としてしてしまいますので、今日は福音書に登場する羊飼いたちに目を向けてこの救いの出来事についてみていきましょう。
この時代羊飼いとは、自分で所有している羊を養うために働いているのではありませんでした。彼らは、いわばやとわれ羊飼いでした。その中で、働いても、働いても決して生活が向上するとかそういう身分ではなく、まさにその日暮らしがやっとの状況の中に落とされていたのです。様々な状況の中で、搾取する者と、される者という構造が出来上がり、この羊飼いは典型的な搾取される側の人々だったのです。
しかも、そのような中で、更に暗闇の中で、現代のように街灯がこうこうと一晩中町を照らすというような中ではなく、本当に真っ暗な荒野の中で、獣たちが羊を襲わないか番をし、ともすれば自分たちのいのちも危ぶまれるような状況の中にいたのです。

それは、大きな不安と怖れを抱きながら日々暮さねばならなかったということです。単純に、夜の暗闇が怖いということではなく、自分の存在、いのち、自分の価値を見いだせずに、心も体もほとほと疲れ果て、希望の無いような状態だったのです。
クリスマスのおとずれはまずそのような貧しい人々に知らされたのです。
当時イスラエルを統治していた王の所にではなく、この社会から無価値で、社会構造の中で底辺にいた人々の所にもたらされたということは、このことこそが神の救いにおいて最も大切なことだったからです。
神ご自身、この世を見たとき、本当の平和をもたらすために来られるとイザヤは預言しています。まさに、この平和でない社会の犠牲者の所にまずもってその知らせを御使いを通して知らせてくださっているのです。

しかし、この平和をもたらし、無価値なもの、涙する者、悲しみの中に暮れている人々のために来られた救い主は、偉大な姿をとって来たのではありませんでした、聖書に記されているように救い主イエス・キリストは、飼い葉おけの中におうまれになったのです。なぜならば、イエスの両親であるマリアとヨセフもまた宿に泊まるところもなく、やむなく家畜小屋で出産を迎えなければならなかったです。
誰が救い主の誕生が家畜小屋の中で起こると思ったでしょうか。当時ユダヤ人たちもまた救い主を期待していましたが、それはダビデのような偉大な王様の姿を期待していました。
しかし、神はそのような人間の思いに応えるのではなく、弱く乏しい姿で救い主を顕されたのです。

なぜこのような弱く乏しい姿を取られたのでしょうか。
結論から申しますならば、そこには神の深い人間への共感があったからです。神はただ単純に力をふるうことを良しとせず、まずもってそのような人間の悲しみ、痛み、苦しみにとことん共感してくださっているのです。
この共感のしるしが飼い葉おけに眠るイエスの姿に現されているのです。
救い主ご自身、十字架上で苦しまれ、痛まれ、悲しみを覚えつつ、私たち一人一人の罪を贖ってくださったという出来事が既にこの飼い葉おけのイエスの姿に顕されているということです。
この飼い葉おけのイエスは、まさに私たちの苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、痛みの象徴として、しるしとして顕され、このわたしの思いに神は応え、共感してくださっているということを顕しているのです。

そして、神の希望、御救いの光は、豪華絢爛な王宮のベッドでもなく、偉大な勇士の姿でもなく、弱く乏しいところにこそ輝き出で、そこにあるのです。ですから、お一人お一人が抱える悩みや、苦しみ、痛みの中に神は宿り、救いの希望を与えてくださっているのです。ですから、もはや私が抱える悩みや嘆きを一人で担う必要はないのです。
あなたの抱えることを神ご自身も深い共感によって共に担ってくださっている、負ってくださっているということをこの飼い葉おけに眠るイエスが示してくださったのです。
きっとこの家畜小屋の中も暗闇に満たされていたでしょう。しかし、そこに眠る神の子イエス・キリストがその暗闇のただなかに来て、わたしたちの希望の光、救いとなられました。

本当に素朴で、純朴な姿で私たちのすぐそばに神は居ます方であるということを私たちは今日御ことばから知らされているのです。
そのような知らせを羊飼いは、神より賜り、大きな喜びの中に置かれたのです。この無価値で、いのちも蔑まされている存在であった私に神は目を留めてくださり、神である身分を超えて、わたしの心に抱える暗闇のただなかに希望の光を注いでくださったという喜びです。
だからこそ、彼らは主の万軍の賛美の声に加わり、この救い主の誕生の知らせを告げ知らせる大切な役割に召されていったのです。

私たちもまた、この神の救いの出来事を喜びをもって告げ知らせてまいりましょう。あなたの悩みのただなかに来てくださる方がお生まれになったということを全世界に賛美の声をもって顕してまいりましょう。
あなたは、もう無価値ではありません。神の目に本当に価値ある命であり、あなたの全存在を肯定し、なおかつこの神のみことばを宣べ伝える召しを与えられています。この傷みからの回復が私たち一人一人に起こっています。
神の平和とはまさにそのように無価値だと思われている状態からの回復です。神の平和とは、傷付いた人々が、その中にあってなお、神共に居ますという希望の中に生き、傷がいやされていくことです。

クリスマスとは、そのような救い主が私たちのもとに来てくださっているという恵みを受け取るそのような時なのです。つらい私たちの現実に神様が希望の光としてみ子を遣わしてくださいました。この深い神の慰めと癒しにあることを覚えつつこのクリスマスの時を過ごしてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。