2014年1月20日月曜日

1月19日 顕現節第3主日礼拝 説教

「天の国は近づいた」

主日の祈り
主なる神様。あなたはみ子によって多くの人々を信仰に導き、栄光を顕されました。私たちにも信仰の賜物を与え、み子のように、すべての人々に喜びを伝えることができるようにしてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
本日の聖書日課
第一日課:アモス書3:1-8()1431
3:1 イスラエルの人々よ/主がお前たちに告げられた言葉を聞け。――わたしがエジプトの地から導き上った/全部族に対して――2 地上の全部族の中からわたしが選んだのは/お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを/すべての罪のゆえに罰する。3 打ち合わせもしないのに/二人の者が共に行くだろうか。4 獲物もないのに/獅子が森の中でほえるだろうか。獲物を捕らえもせずに/若獅子が穴の中から声をとどろかすだろうか。5 餌が仕掛けられてもいないのに/鳥が地上に降りて来るだろうか。獲物もかからないのに/罠が地面から跳ね上がるだろうか。6 町で角笛が吹き鳴らされたなら/人々はおののかないだろうか。町に災いが起こったなら/それは主がなされたことではないか。7 まことに、主なる神はその定められたことを/僕なる預言者に示さずには/何事もなされない。8 獅子がほえる/誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる/誰が預言せずにいられようか。

第二日課:コリントの信徒への手紙一1:1017()299
1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。15 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。16 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

福音書:マタイによる福音書4:1217()5

4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日与えられている福音書の日課は、イエス様がいよいよ宣教をはじめられたという場面です。この時、イエス様はたった一つの宣言によってそのことが始められています。それは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という御ことばです。今日は、この宣言の「天の国は近づいた」という御ことばから、神様の福音を共に聴いてまいりましょう。

説教の中でよく言われることで、皆さんにとっても耳にタコができる話かもしれませんが、私たちは、神様の御前に罪びとであるということを改めて考える必要があると思うのです。
罪人と言うと何か犯罪を犯した人ということを皆さんは思い起こすことと思います。
少し難しくなってしまうかもしれませんが、ルターは、「人間には自由な意思は無い。あるとすれば、悪を行うか、行わないかであって、善を行なうことは不可能である」という趣旨の論を論じています。
そうなると、私たちはどうなるでしょうか。それは、神の御前においていつまでも罪ある状態です。神の御救いの出来事から漏れる人であるという大きな怖れを抱かずにはいられません。

このことから分かることは、私たちはしばしば神を信じるということ、神の御ことばを信じるということを、自分の判断によって決断したことであると思ってしまうのではないでしょうか。
つまり、神を信じ、神の御救い、永遠のいのちの約束に与るのは、わたしの意志次第であるということです。長年信仰を守ってきたのは、私が日々聖書の御ことばに慣れ親しみ、教会生活をちゃんと送って来たからだと思ってしまうのです。このことは、私自身にも自戒を込めて言っていることです。それは、家族であれ、友人であれ、ついついそれをあなたがしっかり決断しなさいと、相手への強制的な決断を迫ろうとしてしまいます。

しかし、それはハッキリ言ってしまうならば、人間の領域にはないのです。ルターは、奴隷意志についてという著作の中で「自由意志は神一人は別にして、誰にも帰属していない」「あなたがある種の選択能力を人間にきしているのはおそらく正しいことであるが、神的な事態に関わって自由意志を(人間に)帰すのは行き過ぎである」と論じ、神的な出来事、すなわち、救いに与かる、永遠のいのちの約束を交わすということは、人間の意志でも行いによるものでもないと語っているのです。

今日読まれている福音書の日課に示されている「天の国は近づいた」という御ことばは、まさにこの神の出来事に関する事柄です。すなわち、この出来事は、私たち人間が推し量ることではないのです。
天の国とは、いわゆる天国という死後の世界に関することではありません。天の国とは、神が支配されている国のことです。つまり、それは神が私たち一人ひとりと共にいて、そこには、神の愛と神の赦しがあるところなのです。

イエスが、この宣言によって宣教を始められたということは、すなわち、私たちの生きるこの世の中に神の愛と赦しの出来事が起こるということを意味しているのです。先ほども言いましたように、ルターは、人間は悪を行うか、そうでないかの意志しかもっていなくて、善を行なうことはできないと語っています。

すなわち、神の眼差しから見るならば、私たちは等しく誰であれ、罪ある者なのです。もちろん、品行方正に生きることはできるかもしれません。しかし、マタイ福音書で「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(5章22節)と語られているように、少しでもこのような事を思わずに生きることは人間には不可能です。

そのような私たちのために神の愛の支配、赦しの宣言がこの時高らかに世界に鳴り響いたのです。
しかも、それはガリラヤというイスラエルの片田舎です。このガリラヤで宣言されたということも非常に大きな意味を持っています。というのも、このガリラヤという場所は、イスラエルに住む人々からするならば、捨てられたような場所だったからです。イスラエルの北側に位置し、シリアからの侵略を受けたとき、いの一番に陥落し、敵の国となってしまいました。それが何を意味するかというならば、そこに住む人々の信仰が弱かったからだと蔑まれるような場所だったのです。

ですから、ガリラヤ出身ということは、何か同じ同属の人に出会ったとしても、後ろめたい気持ちになり、自分を小さくして生きねばならなかった人々がそこに居たのです。当時の人々の判断基準は、神にありましたから、その意味で自分たちは、信仰が弱いから、自分たちは神の目に適っていないからと思いながら生きねばならなかったということです。

しかし、イエスはあえてこの地にやって来たのです。そして、そこで宣教の業がはじめられたということは、そのように小さくされている人々と共に生きるということを示しているのです。そして、人間が抱えなければならない弱さを負っていくという思いがこの宣言の中に示されているのです。それはまさに、神の御救いをこの世に実現するためであるということです。

しかも、このことを何か素晴らしい力で示すということではありません。このことを示された姿は、人間の弱さの中に示されました。時には、病に侵された人の中に、ある時は、異邦人の女性の中に、ある時は、小さな子供たちの中に、ある時は、疑いを持ってしまう弟子たちの中で、そして、その頂点は、十字架の死という恥辱と、屈辱、苦しみの中にです。神の救いは、人間の弱さにこそ輝き出でることによって、神がそのように弱められている人々、罪人と言われている人々と徹頭徹尾共にいるということを示してくださっているのです。

そして、私たちもまた神の御前においては、弱き存在、罪人です。ルターの言葉を借りるならば、悪しか行うことができない存在です。しかし、その中で、神を信じるというこの上なく尊い告白をすることができるのは、何故でしょうか。自分は、ガリラヤというへき地で、人々から注目もされず、あの人は弱い人だと言われている人々が、神の目に止まったのは何故でしょうか。

そこには、神の愛と赦しという恵みがあるからです。私たちのみ救いの出来事は、この宣言から始まるのです。つまり、神の御救いは、御ことばによってなるということです。私たちは、この御ことばによってすべてが成ることを覚えていくことは大切なことです。そして、私たちは、この神からくる恵みによって生かされ、すべての事がらへと押し出されるのです。

私たちは、今年記念すべき年を迎えようと備えの時を過ごしています。その時、私たちは何により頼むかというならば、この御ことばによる恵みにより頼むのです。そして、この神から与えられる聖霊のみ力によって導かれていき、なすべき業を成させてくださることに委ねていくのです。
私たちは、本質的には罪を犯すことができません、ましてや、神の御国を実現することなど到底かなわないのです。それ故に神はイエスをこの世に遣わし、神の支配がこの世に及んでいるという宣言をされ、そのしるしとしてイエスの十字架の苦しみを私たちに示されたのです。

この大いなる恵みを私たちは宣べ伝える使命を一人ひとりが与えられています。今日の一連の聖書の日課は、そのことを明らかにしています。今一度、私たちは自分を見つめ、自分は罪の前では無力なものでしかないということをわきまえ、神に委ね、神の力、神から与えられる聖霊の導きを信じてまいりましょう。
憂うことも、臆することもありません。神の「あなたを愛す、それ故にあなたを赦す」という御救いの御ことばは高らかに宣言されています。
この御ことばに生かされて、この一週間を「罪深い私ではありますが。あなたの御許に立ち返らせてください」と祈り、願いつつ、歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2014年1月12日日曜日

1月12日 主の洗礼日礼拝 説教

イエス様がやって来た!!

主日の祈り
天の父なる神様。あなたはヨルダン川でイエス・キリストに聖霊を注いで「わたしの愛する子」と言われました。み名による洗礼によって、あなたの子どもとされた私たちがみ心に従って歩み、永遠の命を受ける者となるようにしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書4217()1128
42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。 2彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

第二日課:使徒言行録103438()233
10:34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 36 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、 37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 38 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。

福音書:マタイによる福音書31317 ()4
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日読まれた福音書の日課は、イエスの洗礼の場面の物語です。この主の洗礼は、非常に大きな意味を持っています。と、言いますのもこの時をもって、イエスの宣教の道のりが始まったからです。いわゆるイエスの公生涯が始まったターニングポイントとなったのです。そして、更には洗礼後の神の御ことばによって、キリスト教における神の姿が、父なる神、子なる神、聖霊なる神という姿を通して顕されるということを示しています。
ですから、このイエスの洗礼の場面は大変重要なキリスト教における教えが凝縮されているのです。l
また、イエスご自身が洗礼をもって、その宣教の歩みを始められたということは、この洗礼にはその人自身の生き方を変える力が生きて働くのだということを思わずにはいられません。

私たちキリスト者もこのイエスと同じように、洗礼によってキリスト者として生きていくことを告白いたします。
洗礼の式文を読んでみますと、儀式の中で「宣言」という項目があります。ここで洗礼を受ける者は、父なる神、子なるイエス・キリストである神、聖霊なる神を信じますと告白いたします。
その儀式の最初の告白の際には、司式者から次の言葉が尋ねられます。
「あなたは、悪魔と、その力と、その空しい約束をことごとくしりぞけますか」
このことが最初に聴かれることには、大きな意味があるのです。ただ単にキリスト教の大切な教えである父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神を信じるということだけでなく、まずもってキリスト者として歩むということは、この世のいかなる力も、約束も、誘惑も退けるという告白によって始められるのです。
この告白は、実のところ生半可な告白ではありません。なぜならば、私たちの実存には、これらのものがいつでも私という存在を揺るがすからです。

それは、お金や、権力、時には家族すらもそのような揺るがす存在となるでしょう。さらには、病、老いていく自分の姿、人生の経験の中で得てきたものを失うことによって、挙げればきりがありません。
しかし、私たちはいつでも、どこでもこれらの事がらにその信仰が脅かされ、自分自身の存在が脅かされるのです。
老いて衰えていく自分を見るに堪えない思いを抱き、なぜこのような悔しさを味わわねばならないのかと問わずにはいられません。できていたことが、できなくなっていく自分の姿に絶望をします。
時には、病が襲い、何故肉体的にも、精神的にも大きな辛い思いを抱えなければならないのか。
おおよそ苦難というもの、悩みというものが、自分自身を襲う時、私たちはそのことに囚われ、心が窮屈になり、苦しくなります。
また、時には甘美な約束によって惑わされそうになってしまいます。目先のことに囚われるのです。私たちはつい楽な方へと逃げたくなります。苦しいことをなるべく味わうことなく生きていきたいと願うものです。

しかし、これが洗礼の宣言という中で先ずもって告白する「あなたは、悪魔と、その力と、その空しい約束をことごとくしりぞけますか」ということの正体です。そして、これらの事がらが私たちを罪へと手招きする悪魔なのです。
私たちはこの悪魔の誘いを常に受けているのです。悪魔というと何か恐ろしいものを想像しますし、何かそうやって脅してキリスト者となることを強制するかのように聴こえてきます。

けれども、それはこの事がらの本質ではありません。何故かというならば、その答えもこの「宣言」の儀式の中で露わにされます。三位一体の神を信じるという一連の告白の最後に一つの問いが加えられています。
「あなたは、この信仰のもとに、キリストのからだに連なる者となり、み言葉の教えを守り、恵みの手段を尊び、生涯をおくりますか。」
この問いに対する応答の言葉は「はい、神の助けによって」です。つまり、私たちはあらゆる場面で悪魔の誘いを受けます。しかし、三位一体の神を信じると告白したとき、そのいのちの危機は、神によって退けられていくということなのです。そして、私たちは、この神の助けに委ねていくことが赦されている存在へと変えられるのです。

イエスが洗礼を受けたとき、「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」と語られています。
この時、霊が降ってくるという事がらは、3人称単数で語られていますから、この出来事自体はその場にいた人は見ることなくイエスご自身の体験でありましょう。しかし、17節の「天から聞こえた」という御ことばは、2人称単数です。つまり、このイエスに対する祝福の御ことばは、私たち一人一人に聞こえた御ことばであり、拡大解釈するならば、そこに居た人々すべてに向けられている言葉であるということです。

私たちのいのちは、洗礼という出来事によってただ単純にキリスト教に入信したという以上の大変重要な意味があるのです。それは、この神の祝福によって、悪魔の誘いに乗ってしまう罪深い私たちを作り変え、「わたしの心に適う者」としてくださり、何よりも「これはわたしの愛する子」という神の愛する子として生きることが赦される人生へと変えられるのです。私たちは、今まさに大きな神の恵みの中に生かされているということをこの御ことばは証ししています。

さらに、言うならば、この「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった」という事がらについても拡大解釈するならば、それは一人ひとりに起こっている経験です。なぜならば、イエスご自身が経験した事がらをマタイが語り伝えることができたということは、彼自身、キリスト者として歩むとき、洗礼を受け、その光景を自分自身も見たからです。あくまでも物語らなければなりませんから、客観的に記すという制約はあります。しかし、イエスが天に上げられて何十年もあとに記されたマタイ福音書です。つまり、イエスご自身にマタイは、この洗礼の場面の詳細を聴くことはできません。すなわち、この霊が降るという経験は、マタイ自身その実感をもって語っているということが言えるのです。

つまり、このイエスの洗礼の場面とは、初めに言いましたように、イエスの公生涯の始まりという重要なターニングポイントであり、三位一体の神が顕されたということと同時に、この洗礼によって私たちのいのちの在り方がすっかり変えられるということを顕しているのです。
ですから、本日の第一日課で読まれたイザヤ書の預言は、主の僕の召命とありますが、それは単純にイエス・キリストのことだけでなく。これはわたしたち一人一人に与えられている神からの召命であるということです。
そして、その時「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」とあります。
ここを私訳してみますと「見よ。わたしが立たせ、選び出した者。わたしの霊(いのち・ネフェシュ)によって喜ばせる。私は彼の上にわたしの霊(息・ルーアッハ)を置き、彼は国々のために裁きを導き出す。」となります。
この箇所には、二つの霊という言葉が使われていますが、一つは「ネフェシュ」、もう一つは「ルーアッハ」という言葉によって表されています。前者は、「いのち」という意味があり、後者には「息」という意味があります。つまり、私たちが与えられている神からの召しは、神ご自身のいのちと、神の息によって成されているということです。
そこに私たちの思いは介入しないのです。そして、私という存在がどうであろうとそれは神ご自身によって成されていくということを顕しているのです。
キリスト者として生きるということは、この神ご自身の働きによって私たちは生きるということであり、そこにただひたすらに委ねていくということです。
その思いをもって私たちは真剣に「はい、神の助けによって」と告白するのです。

この2014年の歩みの始めにあって、この主の洗礼の出来事を覚えるということは、今一度一人ひとりが、この神によって私という存在が変えられているということを思い起こすと同時に、恐れずにイエスが公生涯の歩みを始めたように、私たち自身も宣教の歩みをスタートさせていくということです。
私たちの下関教会は、来年に迎える100周年に向けて大切な一年を歩み始めました。
神が私たちの歩みを確かなものとしてくださいます。神が弱められている私という存在を折ることなく、力を与えてくださいます。この祝福と恵みの中にあるといことを覚えながら、互いに祈り合い、支え合いながら宣教の歩みを進めてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。