2014年6月15日日曜日

6月8日 聖霊降臨祭(ペンテコステ)礼拝 説教

「約束されていたもの」
主日の祈り
私たちの主イエス・キリストの父なる神様。弟子たちに約束の聖霊を送られたように、あなたの教会を顧み、私たちの心を開いて、み霊の力を受けることができるようにしてください。私たちの心に愛の炎を燃え上がらせ、私たちを強めて、生命ある限りみ国に仕える者としてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
本日の聖書日課
第一日課:ヨエル書31-5()1425
3:1その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。2その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。3天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。4主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。5しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

第二日課:使徒言行録21-21()214
2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

福音書:ヨハネによる福音書737-39()179
7:37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

日は、キリスト教における三大祝祭日の一つである聖霊降臨祭、ペンテコステの礼拝を守っています。聖霊降臨祭とは、読んで字のごとく、聖霊が降って来たということです。しかし、聖霊が降って来たというこの出来事は、何を意味しているのでしょうか。
私たちは、父なる神、子なる神、聖霊なる神という三位一体の神を信じています。父なる神と聞くと、旧約聖書の上から語る神の姿を思い起こしますし、子なる神というと、イエスご自身のことを私たちは思い起こします。しかし、何ともイメージしにくいのは、この聖霊なる神の姿ではないでしょうか。この聖霊の姿を取る神が私たちに何を働きかけているのでしょうか。
今日は、このことをご一緒にこの時、御ことばから聴いてまいりたいと思います。

さて、旧約の時代、神の御ことばを執り継ぐということは、特別な召しを受けた者が司っていました。その最初の人がモーセであったわけですが、その後イスラエルには、事あるごとに神の御ことばを民に執り継ぐ働きを賜った人々が登場します。そのような人々のことを私たちは、預言者と呼んでいます。聖書にあるイザヤ書以降の書物は、まさに預言者が神から預かった言葉を民に語りかけている書物なのです。
また祭司ということも特別に神様から賜った職務でした。神から定められたいわゆる祭儀というものを司り、神と人との執り成しを行うことを主なる働きとして担っていたのです。そして、この祭司という職務は、祭司の血を引く者が世襲で継いでいたのです。
これもまたモーセの兄弟アロンから始まって、連綿と受け継がれてきた大切な神の召しでした。

そのような背景の中でしたから、イスラエルの民たちもまた、預言者と言われている人々の言葉や、祭司と言われている人々の行う祭儀に対して、敬虔な心と、神の御ことばを執り継いでいただきたいという願いの中で過ごしていたのです。
そして、何よりも預言者たちが語る救い主を心から望み、救いの日が来ることを待ち望んでいたのです。
その日の為に、イスラエルの民たちは、自分が救いに相応しい状態で居るために、律法を守る生活を最良の手段と考え、与えられた掟をしっかりと守ることを大事にして信仰のアイデンティティーを保っていたのです。

すなわち、このイスラエルの民の状態はまさに、救いに渇いていたということではないでしょうか。どうしたら救いに与かることができるのか、どうしたら救いの確信を得て人生を歩むことができるのか、そのことが最大の関心ごとだったのです。
そして、私たちはというと、私たちもまた神の救いに与かりたいと願っている者ではないでしょうか。もちろん、私たちはイエスの十字架の贖いの死と復活による永遠の命の約束を知らされていますから、その点では安心してそのイエスの働きに委ねて生きていけばよいのです。しかし、そのような約束を与えられてなお、疑いや、迷い、不安が私たちの頭をもたげ、心を支配することがあります。

なぜならば、父なる神は、御国におられ何となく距離の遠さを覚えます。そして、子なる神であるイエスは、2000年の昔、地上におられ、教え、導いてくださっていましたが、今は天に上げられ私たちのもとにはおられないからです。見えないということは、私たちにとって大きな躓きになります。
仏教には、仏像というものがあり、様々な仏の姿を象っています。日本だけでなく、仏教国に行けばそこかしこで見ることができ、それが信仰の対象として拝まれています。実に具体的で、このような方が自分を浄土に導いてくれるのだということをイメージできます。しかし、そもそも仏教もはじめのうちは仏像というものは存在しませんでした。歴史が進むうちに、ヘレニズムというギリシャ文化がヨーロッパから中東に流れてきたことが影響します。つまり、アポロやゼウスといったギリシャ彫刻の影響によって、仏を象るようになったという説があります。

いずれにせよ、私たちは、何かを信じるという時、何か目に見えることを望みます。
しかし、ユダヤ教もキリスト教も偶像を作らずに信仰を守って来ています。何故そのようなことが可能なのでしょうか。
そのようなことを可能にするのが、まさに聖霊なる神の存在ではないかと思うのです。
先ほども述べましたように、もともとは、神との対話が可能であったのは、預言者や祭司という特別な召しを受けた者たちだけに与えられていた特権的な力でした。

しかし、この聖霊降臨を通して、そのような垣根は取り払われたのです。
今日読まれた第一日課のヨエル書31節には、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。」と記されています。ペトロ自身も、聖霊降臨の際の説教で、今ここで起こっている驚くべき出来事、弟子たちが各地からやって来たユダヤ教徒の言葉で話しているのは、ヨエルを通して預言されていたことが実現したことなのだとハッキリと証ししています。そして、このペトロの証しもまた聖霊が語らせるままに人々に証しした説教です。

つまり、私たちはこの聖霊降臨の出来事を通して、もはや預言者や祭司というような特別な職務にある者だけが特権的に紙との対話を司るのではなく、直接に神との交わりの中に居ることを表しているのです。
そして、この聖霊によってより一層、私たち一人ひとりと深い交わり、繋がりを神と私という存在がもっているということを示しているのです。

すなわち、私たち一人ひとりは、この聖霊降臨の出来事を通じてもはや誰が特別ということではなく、誰しもが神との深い交わりの中で生き、対話することができているのです。そして、その中で私たちは、神の御ことばを一人ひとりがそれぞれに与えられ、その御ことばを、み旨を理解し、証しする者へと変えられているということを示しているのです。
イエスは今日の福音書で「乾いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と私たちに語っています。この渇きとは、喉が渇いたとかそういう渇きではありません。この渇きは、自分の人生に乾いている者のことであり、意味ある人生を送りたいという者の渇きであり、今の現状から抜け出したいという渇きであり、もっと神のことを知りたいという渇きです。言い変えるならば「魂の渇き」と言えるでしょう。

この渇きを今日私たちは聖霊によって神との深い交わりの中に置かれることによって癒されるのです。そして、私たちの魂は神によって良い物で満たされ、喜ぶのです。
何よりもそもそもは、創世記において人間が生きる者となったのは、神の霊が人に注がれたからでした。つまり、私たちはこの神の霊、聖霊無くして命はないのです。

今こうして聖霊降臨の出来事を思い起こしながら、私たちがこの聖霊によって渇きをいやされ、神から賜る良い物で満たされていることに思いをよせ感謝してまいりましょう。
そして、この聖霊はいつまでも私たちと共に居てくださいます。私たち一人ひとりを導き、生かし、いつも潤わせてくださっています。
私たちの周囲にはたくさんの渇いている人々が居ることを覚えます。不条理の中で、悩みの中で、悲しみの中で魂が渇き、困窮している人々のもとへ行き、あなたの渇きを癒し、良い物で満たしてくださる方が居るということを宣べ伝えていきましょう。
もはや誰もが宣べ伝える者として召され、神の御ことばを証しする者とされています。
聖霊降臨は、私たち一人ひとりの魂の渇きをいやす出来事であると同時に、私たち一人ひとりが伝道者として召され、神の御ことばの恵みを伝える者とされているのです。
ですから、語るのは、私ではなく、聖霊です。聖霊が神の御ことばを豊かに他者へと相応しい言葉と行いとをもって私たちを用いてくださっています。この豊かな賜物に感謝して、声を大にして神の出来事、恵みをお一人お一人が宣べ伝えていきましょう。
皆さんの上に神の恵みと聖霊の導きが豊かにあります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。