2015年1月29日木曜日

神の言のあるところに喜びがある

私が牧会に遣わされている日本福音ルーテル下関教会は、今年宣教100周年を迎える。
その大事な一年のための総会となった。
前々から述べているが、教会には30代、40代の方々が世代分布的にも抜け落ちている。
一番仕事の忙しい時であり、なかなか教会に繋がらないというのが現状であろうし、忙しさの中で心の安らぎを求めていたり、何か生活の芯のようなものを求めているとは思うが、それを教会に見出していないのだろう。

しかしながら、神の福音は、すべての人々に宣べ伝えなければならない。
イエス・キリストが復活し、昇天の直前に弟子たちに
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
と伝えている。いわゆる、イエス・キリストの大宣教命令と言われている箇所である。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という約束は、言い変えるならば「わたしの言葉(福音)は、世の終わりまで共にある」ということではないだろうか。
そして、この神の言があるところには、主イエスの受肉の出来事によってこの世に顕れてくださった喜びがあり、神が人間と共に生き、私たちの悔い改めと救いに対して、天で喜びが満ち溢れ、主イエスの復活と昇天の出来事によって弟子たちに喜びと、情熱を燃え立たせた。
つまり、神の言のあるところにはいつも喜びがあるのだ。
まさに主イエスが「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(ヨハネ15:11)と語っている通りである。

教会に集う50代以上の方々は、どれほどこの神の言から与えられる喜びを下の世代に伝えているだろうか。
翻ってわたし自身もこの喜びを伝えられているだろうか。
ともすれば、御ことばを取り継ぎ語るのは、牧師であると、専売特許のように言われる。
もちろん、正しく聖礼典が行われと御ことばが取り継がれることは何よりも大切であるが、あまりにもそれを牧師に押し付けていやしないか。
宣教について与えられている使命は、すべてのキリスト者に対してである。
聖書に書かれているということは、それが特定の者に対するイエスの命令ではなく、私たち一人ひとりに与えらえている召しであり、使命である。

この使命を一人ひとりが担い、神の言のあるところに喜びがあるのだということを宣べ伝えていかなければ、教会は、衰退していくだけである。
何か方法があるとか無いとかではなく、一人ひとりがこの神の言によって与えられた喜びを体現していくことが、教会の方策や施策に寄らずとも、キリストとの出会いが多くの人に与えられる宣教となるのではないだろうか。

批判的にとらえているように見えるが、そうではない。
これは一種の自分への戒めでもある。やはり私自身も牧会者として立たされ、神の言の喜びを体現し、それを伝えているかということを問われているのだと思う。
2015年4月で牧師生活4年目に入る。
そのような若輩者に、100周年という大きな出来事を迎える教会へと遣わされた意味を今一度、深沈し、神の御旨に思いをよせて歩んでいきたいと思う。

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