2015年7月31日金曜日

徒然

たぶん戦争をしたいと思っている人は殆ど居ないと思うのです。
いろんなしがらみに囚われると利権とか、利益とかを考えちゃうから変な流れに乗って、本来の欲求とは違う方向が正しいと頑なにを考えてしまうのだろうと思うのです。

個人的には、たしかに戦争や、攻撃される可能性があるわけですから、どうにか守っていく必要はあると思いますが、今回の安保法案には反対です。A国の言いなりだとか、C国さんが脅威だとか、K国がミサイル向けてるとか色んな意見がありますが、そもそも憲法解釈が違憲だという意見があるのにそれが無視されてしまった事が腑に落ちないからです。

さて、平和って一言に言っても三者三様です。
僕なりに考える平和は、相手を受け入れる事に尽きると思うのです。
それは、相手を心から思って、相手が本当に望んでいる声を聴き取るっていう途方もなく、面倒で、難解で、困難なことだろうと思います。
でもね、僕は一人のキリスト者としてこれを実現したいなぁって心から願っています。

ミカ書4:3〜5
3主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。4人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。5どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。

ミカ書の有名な箇所です。
ミカの時代、イスラエルは、神様の背信の故に、神様によって他国を攻め上がらせて、国の存続が危ぶまれました。実際、北イスラエルは滅ぼされてしまいました。

でも、神様の裁きは滅びで終わりませんでした。
争いの後、ことごとく武器は平和の道具に変えられたと記されているように、平和が必ず訪れると預言しています。

さらに言うならこれは独善的な平和ではありません。
「5どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。」
互いに認め合い、共に生きていくということです。
僕はキリスト者ですけど、神社を拝んでも、仏さんを拝んでも、ヒンドゥーでも、ムスリムでも良いと思うのです。
ただそれをキリストこそ正しいと頭ごなしに否定するのではなく、互いに相手を思うこと、先にも書いたように相手の声を聴き取ることが平和への遠道のように見えて、何よりも近道だと思うのです。

だからこそ、根気よく議論を続ける事、反対であっても賛成の方々の意見にも耳を傾けていかなければならないのではないかと最近思い始めています。
だから無理して結論を出す事もないように思います。

今の政治家の人たちは、なんだかそこが欠けているように思うのです。
互いに相手の声に聴くことなくいってしまっているように思います。

今度の主日の説教考えながらこんな事を思った次第です。

※写真は我が家の平和の象徴です。