2015年9月10日木曜日

100周年記念の準備にあたる中で

私が牧会を任されているルーテル下関教会は、今年で宣教100周年を迎えます。
もともとは、門司にあるルーテル門司教会の講義所として始まった小さな群れが、教会となり、戦災による会堂消失、幼稚園の閉鎖などの困難を乗り越えながら、100年の時を刻んできたのです。

私は新任でこの教会に遣わされてきましたから、はじめ何故わたしのような新任牧師にこんな大切な節目の時を任せるのか!?などと心の中ではごねていました。
しかしながら、準備にあたる中で、一つのことを思い出しました。
それは、私が牧師への献身の道を開いてくださったみ言葉です。

1:7しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。 8彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。 」(エレミヤ書1章7節、8節)

わたしたちは、様々なことを通して恐れを抱きます。
自分に自信が無かったり、力及ばないと思うとそれは益々大きくなって心身を飲み込もうとします。
しかしながら、神様は預言者としてあなたを召し出したと告げられ、恐れおののくエレミヤに対して、「恐れるな」と告げます。
なぜならば、神様は共に居てくださるからです。

そして、同時に「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。」(申命記1章29節、30節)とおっしゃってくださっているように、恐れおののく私たちのために神様は戦ってくださり、この恐れを取り除いてくださるのです。

私は、この記念事業を準備する中で改めてこの神様の姿に気づかされました。
今も恐れはあります。本当にこれでよいのか、本当に私なんかが適当なのかと様々に思いめぐらします。けれども、この教会のために先頭に立ち働いてくださったのは、神様ご自身です。
そして、その神様に信頼して多くの人々の働きが成り、この方々によって100年の歩みが刻まれてきたのだと確信するに至りました。
だから、私もこの下関教会の信仰の先達に倣って、神様が先立って良い方向へと導いてくださっていると神様を信頼していこうと思うのです。

100年は、ハッキリ言ってしまうならば通過点です。これからも下関教会は、時を刻み続けます。
しかしながら、主が先立つ、主が共に居るということをいつも覚えながら、主に信頼して歩み続ける教会であるように牧師としてしっかりと働いていきたいと今は考えています。




2015年7月31日金曜日

徒然

たぶん戦争をしたいと思っている人は殆ど居ないと思うのです。
いろんなしがらみに囚われると利権とか、利益とかを考えちゃうから変な流れに乗って、本来の欲求とは違う方向が正しいと頑なにを考えてしまうのだろうと思うのです。

個人的には、たしかに戦争や、攻撃される可能性があるわけですから、どうにか守っていく必要はあると思いますが、今回の安保法案には反対です。A国の言いなりだとか、C国さんが脅威だとか、K国がミサイル向けてるとか色んな意見がありますが、そもそも憲法解釈が違憲だという意見があるのにそれが無視されてしまった事が腑に落ちないからです。

さて、平和って一言に言っても三者三様です。
僕なりに考える平和は、相手を受け入れる事に尽きると思うのです。
それは、相手を心から思って、相手が本当に望んでいる声を聴き取るっていう途方もなく、面倒で、難解で、困難なことだろうと思います。
でもね、僕は一人のキリスト者としてこれを実現したいなぁって心から願っています。

ミカ書4:3〜5
3主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。4人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。5どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。

ミカ書の有名な箇所です。
ミカの時代、イスラエルは、神様の背信の故に、神様によって他国を攻め上がらせて、国の存続が危ぶまれました。実際、北イスラエルは滅ぼされてしまいました。

でも、神様の裁きは滅びで終わりませんでした。
争いの後、ことごとく武器は平和の道具に変えられたと記されているように、平和が必ず訪れると預言しています。

さらに言うならこれは独善的な平和ではありません。
「5どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。」
互いに認め合い、共に生きていくということです。
僕はキリスト者ですけど、神社を拝んでも、仏さんを拝んでも、ヒンドゥーでも、ムスリムでも良いと思うのです。
ただそれをキリストこそ正しいと頭ごなしに否定するのではなく、互いに相手を思うこと、先にも書いたように相手の声を聴き取ることが平和への遠道のように見えて、何よりも近道だと思うのです。

だからこそ、根気よく議論を続ける事、反対であっても賛成の方々の意見にも耳を傾けていかなければならないのではないかと最近思い始めています。
だから無理して結論を出す事もないように思います。

今の政治家の人たちは、なんだかそこが欠けているように思うのです。
互いに相手の声に聴くことなくいってしまっているように思います。

今度の主日の説教考えながらこんな事を思った次第です。

※写真は我が家の平和の象徴です。

2015年1月29日木曜日

神の言のあるところに喜びがある

私が牧会に遣わされている日本福音ルーテル下関教会は、今年宣教100周年を迎える。
その大事な一年のための総会となった。
前々から述べているが、教会には30代、40代の方々が世代分布的にも抜け落ちている。
一番仕事の忙しい時であり、なかなか教会に繋がらないというのが現状であろうし、忙しさの中で心の安らぎを求めていたり、何か生活の芯のようなものを求めているとは思うが、それを教会に見出していないのだろう。

しかしながら、神の福音は、すべての人々に宣べ伝えなければならない。
イエス・キリストが復活し、昇天の直前に弟子たちに
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
と伝えている。いわゆる、イエス・キリストの大宣教命令と言われている箇所である。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という約束は、言い変えるならば「わたしの言葉(福音)は、世の終わりまで共にある」ということではないだろうか。
そして、この神の言があるところには、主イエスの受肉の出来事によってこの世に顕れてくださった喜びがあり、神が人間と共に生き、私たちの悔い改めと救いに対して、天で喜びが満ち溢れ、主イエスの復活と昇天の出来事によって弟子たちに喜びと、情熱を燃え立たせた。
つまり、神の言のあるところにはいつも喜びがあるのだ。
まさに主イエスが「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(ヨハネ15:11)と語っている通りである。

教会に集う50代以上の方々は、どれほどこの神の言から与えられる喜びを下の世代に伝えているだろうか。
翻ってわたし自身もこの喜びを伝えられているだろうか。
ともすれば、御ことばを取り継ぎ語るのは、牧師であると、専売特許のように言われる。
もちろん、正しく聖礼典が行われと御ことばが取り継がれることは何よりも大切であるが、あまりにもそれを牧師に押し付けていやしないか。
宣教について与えられている使命は、すべてのキリスト者に対してである。
聖書に書かれているということは、それが特定の者に対するイエスの命令ではなく、私たち一人ひとりに与えらえている召しであり、使命である。

この使命を一人ひとりが担い、神の言のあるところに喜びがあるのだということを宣べ伝えていかなければ、教会は、衰退していくだけである。
何か方法があるとか無いとかではなく、一人ひとりがこの神の言によって与えられた喜びを体現していくことが、教会の方策や施策に寄らずとも、キリストとの出会いが多くの人に与えられる宣教となるのではないだろうか。

批判的にとらえているように見えるが、そうではない。
これは一種の自分への戒めでもある。やはり私自身も牧会者として立たされ、神の言の喜びを体現し、それを伝えているかということを問われているのだと思う。
2015年4月で牧師生活4年目に入る。
そのような若輩者に、100周年という大きな出来事を迎える教会へと遣わされた意味を今一度、深沈し、神の御旨に思いをよせて歩んでいきたいと思う。

西中国地区信徒大会「るうてる秋の大会」を終えて

日本福音ルーテル教会は、地区という区分けがある。
私が遣わされている下関・厚狭教会は、西中国地区という地区に属している。
地域的には山口県の3教会(厚狭、下関、宇部)、1教会(シオン教会)のうちの3礼拝所(徳山、防府、柳井)と島根県にある2礼拝所(六日市、益田)の4つの教会から成る。

タイトルにある「るうてる秋の大会」とは、この西中国地区の各地にある教会の信徒がともどもに集い交わりの時を持つ大切な時と場所として守られてきた。
以前は、春にも行われていたが、負担を考慮して秋の秋分の日に合わせて開催されている。

今年も多くの方々が集い、一緒に交わりを深めた。
普段は、遠く離れている(山口県は意外と広い)各教会の信徒と顔と顔を合わせてお会いする少ない機会である。
今年は、礼拝と各教会による出し物の発表による交わりとなった。
私自身は非常に楽しめた日であった。

礼拝で、御ことばと聖餐の恵みを共に分かち合い、信仰の絆を神によって深められ、午後からのプログラムでは、殆どの教会が歌による出し物であったが、各教会、礼拝所ともそれぞれに個性が出たものとなった。

しかし、率直なことを述べるならば、青年と中間層が居ない。
私が今年で29歳である。子どもを抜く信徒の中で一番若い。
地方における少子高齢化が如実にこういった集いの構成にも表れる。
山口県における高齢化率は著しく高い。47都道府県中で一けた台のランキングだ。
島根県に至っては、全国2位の高齢化率である。

自分自身は、牧師になった当初、青年伝道こそがこれからの教会に大切だという情熱を持っていた。
しかし、地方の教会に遣わされ目の当たりにする現状は、高齢化社会の波が「さざ波」ではなく、「大波」のように教会にも押し寄せているという現状である。
もちろん、青年伝道の情熱が冷めたわけではない。
しかし、伝道の業を一面的に見るのではなく、自分が置かれている社会の中に在って、この社会にどのように神の御ことばを宣べ伝え、多くの人々が導くことができるのかと考えるともっと伝道という事がらも多面的にとらえる必要をヒシヒシと感じざるを得ない。

2014年6月15日日曜日

6月8日 聖霊降臨祭(ペンテコステ)礼拝 説教

「約束されていたもの」
主日の祈り
私たちの主イエス・キリストの父なる神様。弟子たちに約束の聖霊を送られたように、あなたの教会を顧み、私たちの心を開いて、み霊の力を受けることができるようにしてください。私たちの心に愛の炎を燃え上がらせ、私たちを強めて、生命ある限りみ国に仕える者としてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
本日の聖書日課
第一日課:ヨエル書31-5()1425
3:1その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。2その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。3天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。4主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。5しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

第二日課:使徒言行録21-21()214
2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

福音書:ヨハネによる福音書737-39()179
7:37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

日は、キリスト教における三大祝祭日の一つである聖霊降臨祭、ペンテコステの礼拝を守っています。聖霊降臨祭とは、読んで字のごとく、聖霊が降って来たということです。しかし、聖霊が降って来たというこの出来事は、何を意味しているのでしょうか。
私たちは、父なる神、子なる神、聖霊なる神という三位一体の神を信じています。父なる神と聞くと、旧約聖書の上から語る神の姿を思い起こしますし、子なる神というと、イエスご自身のことを私たちは思い起こします。しかし、何ともイメージしにくいのは、この聖霊なる神の姿ではないでしょうか。この聖霊の姿を取る神が私たちに何を働きかけているのでしょうか。
今日は、このことをご一緒にこの時、御ことばから聴いてまいりたいと思います。

さて、旧約の時代、神の御ことばを執り継ぐということは、特別な召しを受けた者が司っていました。その最初の人がモーセであったわけですが、その後イスラエルには、事あるごとに神の御ことばを民に執り継ぐ働きを賜った人々が登場します。そのような人々のことを私たちは、預言者と呼んでいます。聖書にあるイザヤ書以降の書物は、まさに預言者が神から預かった言葉を民に語りかけている書物なのです。
また祭司ということも特別に神様から賜った職務でした。神から定められたいわゆる祭儀というものを司り、神と人との執り成しを行うことを主なる働きとして担っていたのです。そして、この祭司という職務は、祭司の血を引く者が世襲で継いでいたのです。
これもまたモーセの兄弟アロンから始まって、連綿と受け継がれてきた大切な神の召しでした。

そのような背景の中でしたから、イスラエルの民たちもまた、預言者と言われている人々の言葉や、祭司と言われている人々の行う祭儀に対して、敬虔な心と、神の御ことばを執り継いでいただきたいという願いの中で過ごしていたのです。
そして、何よりも預言者たちが語る救い主を心から望み、救いの日が来ることを待ち望んでいたのです。
その日の為に、イスラエルの民たちは、自分が救いに相応しい状態で居るために、律法を守る生活を最良の手段と考え、与えられた掟をしっかりと守ることを大事にして信仰のアイデンティティーを保っていたのです。

すなわち、このイスラエルの民の状態はまさに、救いに渇いていたということではないでしょうか。どうしたら救いに与かることができるのか、どうしたら救いの確信を得て人生を歩むことができるのか、そのことが最大の関心ごとだったのです。
そして、私たちはというと、私たちもまた神の救いに与かりたいと願っている者ではないでしょうか。もちろん、私たちはイエスの十字架の贖いの死と復活による永遠の命の約束を知らされていますから、その点では安心してそのイエスの働きに委ねて生きていけばよいのです。しかし、そのような約束を与えられてなお、疑いや、迷い、不安が私たちの頭をもたげ、心を支配することがあります。

なぜならば、父なる神は、御国におられ何となく距離の遠さを覚えます。そして、子なる神であるイエスは、2000年の昔、地上におられ、教え、導いてくださっていましたが、今は天に上げられ私たちのもとにはおられないからです。見えないということは、私たちにとって大きな躓きになります。
仏教には、仏像というものがあり、様々な仏の姿を象っています。日本だけでなく、仏教国に行けばそこかしこで見ることができ、それが信仰の対象として拝まれています。実に具体的で、このような方が自分を浄土に導いてくれるのだということをイメージできます。しかし、そもそも仏教もはじめのうちは仏像というものは存在しませんでした。歴史が進むうちに、ヘレニズムというギリシャ文化がヨーロッパから中東に流れてきたことが影響します。つまり、アポロやゼウスといったギリシャ彫刻の影響によって、仏を象るようになったという説があります。

いずれにせよ、私たちは、何かを信じるという時、何か目に見えることを望みます。
しかし、ユダヤ教もキリスト教も偶像を作らずに信仰を守って来ています。何故そのようなことが可能なのでしょうか。
そのようなことを可能にするのが、まさに聖霊なる神の存在ではないかと思うのです。
先ほども述べましたように、もともとは、神との対話が可能であったのは、預言者や祭司という特別な召しを受けた者たちだけに与えられていた特権的な力でした。

しかし、この聖霊降臨を通して、そのような垣根は取り払われたのです。
今日読まれた第一日課のヨエル書31節には、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。」と記されています。ペトロ自身も、聖霊降臨の際の説教で、今ここで起こっている驚くべき出来事、弟子たちが各地からやって来たユダヤ教徒の言葉で話しているのは、ヨエルを通して預言されていたことが実現したことなのだとハッキリと証ししています。そして、このペトロの証しもまた聖霊が語らせるままに人々に証しした説教です。

つまり、私たちはこの聖霊降臨の出来事を通して、もはや預言者や祭司というような特別な職務にある者だけが特権的に紙との対話を司るのではなく、直接に神との交わりの中に居ることを表しているのです。
そして、この聖霊によってより一層、私たち一人ひとりと深い交わり、繋がりを神と私という存在がもっているということを示しているのです。

すなわち、私たち一人ひとりは、この聖霊降臨の出来事を通じてもはや誰が特別ということではなく、誰しもが神との深い交わりの中で生き、対話することができているのです。そして、その中で私たちは、神の御ことばを一人ひとりがそれぞれに与えられ、その御ことばを、み旨を理解し、証しする者へと変えられているということを示しているのです。
イエスは今日の福音書で「乾いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と私たちに語っています。この渇きとは、喉が渇いたとかそういう渇きではありません。この渇きは、自分の人生に乾いている者のことであり、意味ある人生を送りたいという者の渇きであり、今の現状から抜け出したいという渇きであり、もっと神のことを知りたいという渇きです。言い変えるならば「魂の渇き」と言えるでしょう。

この渇きを今日私たちは聖霊によって神との深い交わりの中に置かれることによって癒されるのです。そして、私たちの魂は神によって良い物で満たされ、喜ぶのです。
何よりもそもそもは、創世記において人間が生きる者となったのは、神の霊が人に注がれたからでした。つまり、私たちはこの神の霊、聖霊無くして命はないのです。

今こうして聖霊降臨の出来事を思い起こしながら、私たちがこの聖霊によって渇きをいやされ、神から賜る良い物で満たされていることに思いをよせ感謝してまいりましょう。
そして、この聖霊はいつまでも私たちと共に居てくださいます。私たち一人ひとりを導き、生かし、いつも潤わせてくださっています。
私たちの周囲にはたくさんの渇いている人々が居ることを覚えます。不条理の中で、悩みの中で、悲しみの中で魂が渇き、困窮している人々のもとへ行き、あなたの渇きを癒し、良い物で満たしてくださる方が居るということを宣べ伝えていきましょう。
もはや誰もが宣べ伝える者として召され、神の御ことばを証しする者とされています。
聖霊降臨は、私たち一人ひとりの魂の渇きをいやす出来事であると同時に、私たち一人ひとりが伝道者として召され、神の御ことばの恵みを伝える者とされているのです。
ですから、語るのは、私ではなく、聖霊です。聖霊が神の御ことばを豊かに他者へと相応しい言葉と行いとをもって私たちを用いてくださっています。この豊かな賜物に感謝して、声を大にして神の出来事、恵みをお一人お一人が宣べ伝えていきましょう。
皆さんの上に神の恵みと聖霊の導きが豊かにあります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


2014年1月20日月曜日

1月19日 顕現節第3主日礼拝 説教

「天の国は近づいた」

主日の祈り
主なる神様。あなたはみ子によって多くの人々を信仰に導き、栄光を顕されました。私たちにも信仰の賜物を与え、み子のように、すべての人々に喜びを伝えることができるようにしてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
本日の聖書日課
第一日課:アモス書3:1-8()1431
3:1 イスラエルの人々よ/主がお前たちに告げられた言葉を聞け。――わたしがエジプトの地から導き上った/全部族に対して――2 地上の全部族の中からわたしが選んだのは/お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを/すべての罪のゆえに罰する。3 打ち合わせもしないのに/二人の者が共に行くだろうか。4 獲物もないのに/獅子が森の中でほえるだろうか。獲物を捕らえもせずに/若獅子が穴の中から声をとどろかすだろうか。5 餌が仕掛けられてもいないのに/鳥が地上に降りて来るだろうか。獲物もかからないのに/罠が地面から跳ね上がるだろうか。6 町で角笛が吹き鳴らされたなら/人々はおののかないだろうか。町に災いが起こったなら/それは主がなされたことではないか。7 まことに、主なる神はその定められたことを/僕なる預言者に示さずには/何事もなされない。8 獅子がほえる/誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる/誰が預言せずにいられようか。

第二日課:コリントの信徒への手紙一1:1017()299
1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。15 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。16 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

福音書:マタイによる福音書4:1217()5

4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日与えられている福音書の日課は、イエス様がいよいよ宣教をはじめられたという場面です。この時、イエス様はたった一つの宣言によってそのことが始められています。それは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という御ことばです。今日は、この宣言の「天の国は近づいた」という御ことばから、神様の福音を共に聴いてまいりましょう。

説教の中でよく言われることで、皆さんにとっても耳にタコができる話かもしれませんが、私たちは、神様の御前に罪びとであるということを改めて考える必要があると思うのです。
罪人と言うと何か犯罪を犯した人ということを皆さんは思い起こすことと思います。
少し難しくなってしまうかもしれませんが、ルターは、「人間には自由な意思は無い。あるとすれば、悪を行うか、行わないかであって、善を行なうことは不可能である」という趣旨の論を論じています。
そうなると、私たちはどうなるでしょうか。それは、神の御前においていつまでも罪ある状態です。神の御救いの出来事から漏れる人であるという大きな怖れを抱かずにはいられません。

このことから分かることは、私たちはしばしば神を信じるということ、神の御ことばを信じるということを、自分の判断によって決断したことであると思ってしまうのではないでしょうか。
つまり、神を信じ、神の御救い、永遠のいのちの約束に与るのは、わたしの意志次第であるということです。長年信仰を守ってきたのは、私が日々聖書の御ことばに慣れ親しみ、教会生活をちゃんと送って来たからだと思ってしまうのです。このことは、私自身にも自戒を込めて言っていることです。それは、家族であれ、友人であれ、ついついそれをあなたがしっかり決断しなさいと、相手への強制的な決断を迫ろうとしてしまいます。

しかし、それはハッキリ言ってしまうならば、人間の領域にはないのです。ルターは、奴隷意志についてという著作の中で「自由意志は神一人は別にして、誰にも帰属していない」「あなたがある種の選択能力を人間にきしているのはおそらく正しいことであるが、神的な事態に関わって自由意志を(人間に)帰すのは行き過ぎである」と論じ、神的な出来事、すなわち、救いに与かる、永遠のいのちの約束を交わすということは、人間の意志でも行いによるものでもないと語っているのです。

今日読まれている福音書の日課に示されている「天の国は近づいた」という御ことばは、まさにこの神の出来事に関する事柄です。すなわち、この出来事は、私たち人間が推し量ることではないのです。
天の国とは、いわゆる天国という死後の世界に関することではありません。天の国とは、神が支配されている国のことです。つまり、それは神が私たち一人ひとりと共にいて、そこには、神の愛と神の赦しがあるところなのです。

イエスが、この宣言によって宣教を始められたということは、すなわち、私たちの生きるこの世の中に神の愛と赦しの出来事が起こるということを意味しているのです。先ほども言いましたように、ルターは、人間は悪を行うか、そうでないかの意志しかもっていなくて、善を行なうことはできないと語っています。

すなわち、神の眼差しから見るならば、私たちは等しく誰であれ、罪ある者なのです。もちろん、品行方正に生きることはできるかもしれません。しかし、マタイ福音書で「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(5章22節)と語られているように、少しでもこのような事を思わずに生きることは人間には不可能です。

そのような私たちのために神の愛の支配、赦しの宣言がこの時高らかに世界に鳴り響いたのです。
しかも、それはガリラヤというイスラエルの片田舎です。このガリラヤで宣言されたということも非常に大きな意味を持っています。というのも、このガリラヤという場所は、イスラエルに住む人々からするならば、捨てられたような場所だったからです。イスラエルの北側に位置し、シリアからの侵略を受けたとき、いの一番に陥落し、敵の国となってしまいました。それが何を意味するかというならば、そこに住む人々の信仰が弱かったからだと蔑まれるような場所だったのです。

ですから、ガリラヤ出身ということは、何か同じ同属の人に出会ったとしても、後ろめたい気持ちになり、自分を小さくして生きねばならなかった人々がそこに居たのです。当時の人々の判断基準は、神にありましたから、その意味で自分たちは、信仰が弱いから、自分たちは神の目に適っていないからと思いながら生きねばならなかったということです。

しかし、イエスはあえてこの地にやって来たのです。そして、そこで宣教の業がはじめられたということは、そのように小さくされている人々と共に生きるということを示しているのです。そして、人間が抱えなければならない弱さを負っていくという思いがこの宣言の中に示されているのです。それはまさに、神の御救いをこの世に実現するためであるということです。

しかも、このことを何か素晴らしい力で示すということではありません。このことを示された姿は、人間の弱さの中に示されました。時には、病に侵された人の中に、ある時は、異邦人の女性の中に、ある時は、小さな子供たちの中に、ある時は、疑いを持ってしまう弟子たちの中で、そして、その頂点は、十字架の死という恥辱と、屈辱、苦しみの中にです。神の救いは、人間の弱さにこそ輝き出でることによって、神がそのように弱められている人々、罪人と言われている人々と徹頭徹尾共にいるということを示してくださっているのです。

そして、私たちもまた神の御前においては、弱き存在、罪人です。ルターの言葉を借りるならば、悪しか行うことができない存在です。しかし、その中で、神を信じるというこの上なく尊い告白をすることができるのは、何故でしょうか。自分は、ガリラヤというへき地で、人々から注目もされず、あの人は弱い人だと言われている人々が、神の目に止まったのは何故でしょうか。

そこには、神の愛と赦しという恵みがあるからです。私たちのみ救いの出来事は、この宣言から始まるのです。つまり、神の御救いは、御ことばによってなるということです。私たちは、この御ことばによってすべてが成ることを覚えていくことは大切なことです。そして、私たちは、この神からくる恵みによって生かされ、すべての事がらへと押し出されるのです。

私たちは、今年記念すべき年を迎えようと備えの時を過ごしています。その時、私たちは何により頼むかというならば、この御ことばによる恵みにより頼むのです。そして、この神から与えられる聖霊のみ力によって導かれていき、なすべき業を成させてくださることに委ねていくのです。
私たちは、本質的には罪を犯すことができません、ましてや、神の御国を実現することなど到底かなわないのです。それ故に神はイエスをこの世に遣わし、神の支配がこの世に及んでいるという宣言をされ、そのしるしとしてイエスの十字架の苦しみを私たちに示されたのです。

この大いなる恵みを私たちは宣べ伝える使命を一人ひとりが与えられています。今日の一連の聖書の日課は、そのことを明らかにしています。今一度、私たちは自分を見つめ、自分は罪の前では無力なものでしかないということをわきまえ、神に委ね、神の力、神から与えられる聖霊の導きを信じてまいりましょう。
憂うことも、臆することもありません。神の「あなたを愛す、それ故にあなたを赦す」という御救いの御ことばは高らかに宣言されています。
この御ことばに生かされて、この一週間を「罪深い私ではありますが。あなたの御許に立ち返らせてください」と祈り、願いつつ、歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2014年1月12日日曜日

1月12日 主の洗礼日礼拝 説教

イエス様がやって来た!!

主日の祈り
天の父なる神様。あなたはヨルダン川でイエス・キリストに聖霊を注いで「わたしの愛する子」と言われました。み名による洗礼によって、あなたの子どもとされた私たちがみ心に従って歩み、永遠の命を受ける者となるようにしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書4217()1128
42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。 2彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

第二日課:使徒言行録103438()233
10:34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 36 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、 37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 38 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。

福音書:マタイによる福音書31317 ()4
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日読まれた福音書の日課は、イエスの洗礼の場面の物語です。この主の洗礼は、非常に大きな意味を持っています。と、言いますのもこの時をもって、イエスの宣教の道のりが始まったからです。いわゆるイエスの公生涯が始まったターニングポイントとなったのです。そして、更には洗礼後の神の御ことばによって、キリスト教における神の姿が、父なる神、子なる神、聖霊なる神という姿を通して顕されるということを示しています。
ですから、このイエスの洗礼の場面は大変重要なキリスト教における教えが凝縮されているのです。l
また、イエスご自身が洗礼をもって、その宣教の歩みを始められたということは、この洗礼にはその人自身の生き方を変える力が生きて働くのだということを思わずにはいられません。

私たちキリスト者もこのイエスと同じように、洗礼によってキリスト者として生きていくことを告白いたします。
洗礼の式文を読んでみますと、儀式の中で「宣言」という項目があります。ここで洗礼を受ける者は、父なる神、子なるイエス・キリストである神、聖霊なる神を信じますと告白いたします。
その儀式の最初の告白の際には、司式者から次の言葉が尋ねられます。
「あなたは、悪魔と、その力と、その空しい約束をことごとくしりぞけますか」
このことが最初に聴かれることには、大きな意味があるのです。ただ単にキリスト教の大切な教えである父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神を信じるということだけでなく、まずもってキリスト者として歩むということは、この世のいかなる力も、約束も、誘惑も退けるという告白によって始められるのです。
この告白は、実のところ生半可な告白ではありません。なぜならば、私たちの実存には、これらのものがいつでも私という存在を揺るがすからです。

それは、お金や、権力、時には家族すらもそのような揺るがす存在となるでしょう。さらには、病、老いていく自分の姿、人生の経験の中で得てきたものを失うことによって、挙げればきりがありません。
しかし、私たちはいつでも、どこでもこれらの事がらにその信仰が脅かされ、自分自身の存在が脅かされるのです。
老いて衰えていく自分を見るに堪えない思いを抱き、なぜこのような悔しさを味わわねばならないのかと問わずにはいられません。できていたことが、できなくなっていく自分の姿に絶望をします。
時には、病が襲い、何故肉体的にも、精神的にも大きな辛い思いを抱えなければならないのか。
おおよそ苦難というもの、悩みというものが、自分自身を襲う時、私たちはそのことに囚われ、心が窮屈になり、苦しくなります。
また、時には甘美な約束によって惑わされそうになってしまいます。目先のことに囚われるのです。私たちはつい楽な方へと逃げたくなります。苦しいことをなるべく味わうことなく生きていきたいと願うものです。

しかし、これが洗礼の宣言という中で先ずもって告白する「あなたは、悪魔と、その力と、その空しい約束をことごとくしりぞけますか」ということの正体です。そして、これらの事がらが私たちを罪へと手招きする悪魔なのです。
私たちはこの悪魔の誘いを常に受けているのです。悪魔というと何か恐ろしいものを想像しますし、何かそうやって脅してキリスト者となることを強制するかのように聴こえてきます。

けれども、それはこの事がらの本質ではありません。何故かというならば、その答えもこの「宣言」の儀式の中で露わにされます。三位一体の神を信じるという一連の告白の最後に一つの問いが加えられています。
「あなたは、この信仰のもとに、キリストのからだに連なる者となり、み言葉の教えを守り、恵みの手段を尊び、生涯をおくりますか。」
この問いに対する応答の言葉は「はい、神の助けによって」です。つまり、私たちはあらゆる場面で悪魔の誘いを受けます。しかし、三位一体の神を信じると告白したとき、そのいのちの危機は、神によって退けられていくということなのです。そして、私たちは、この神の助けに委ねていくことが赦されている存在へと変えられるのです。

イエスが洗礼を受けたとき、「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」と語られています。
この時、霊が降ってくるという事がらは、3人称単数で語られていますから、この出来事自体はその場にいた人は見ることなくイエスご自身の体験でありましょう。しかし、17節の「天から聞こえた」という御ことばは、2人称単数です。つまり、このイエスに対する祝福の御ことばは、私たち一人一人に聞こえた御ことばであり、拡大解釈するならば、そこに居た人々すべてに向けられている言葉であるということです。

私たちのいのちは、洗礼という出来事によってただ単純にキリスト教に入信したという以上の大変重要な意味があるのです。それは、この神の祝福によって、悪魔の誘いに乗ってしまう罪深い私たちを作り変え、「わたしの心に適う者」としてくださり、何よりも「これはわたしの愛する子」という神の愛する子として生きることが赦される人生へと変えられるのです。私たちは、今まさに大きな神の恵みの中に生かされているということをこの御ことばは証ししています。

さらに、言うならば、この「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった」という事がらについても拡大解釈するならば、それは一人ひとりに起こっている経験です。なぜならば、イエスご自身が経験した事がらをマタイが語り伝えることができたということは、彼自身、キリスト者として歩むとき、洗礼を受け、その光景を自分自身も見たからです。あくまでも物語らなければなりませんから、客観的に記すという制約はあります。しかし、イエスが天に上げられて何十年もあとに記されたマタイ福音書です。つまり、イエスご自身にマタイは、この洗礼の場面の詳細を聴くことはできません。すなわち、この霊が降るという経験は、マタイ自身その実感をもって語っているということが言えるのです。

つまり、このイエスの洗礼の場面とは、初めに言いましたように、イエスの公生涯の始まりという重要なターニングポイントであり、三位一体の神が顕されたということと同時に、この洗礼によって私たちのいのちの在り方がすっかり変えられるということを顕しているのです。
ですから、本日の第一日課で読まれたイザヤ書の預言は、主の僕の召命とありますが、それは単純にイエス・キリストのことだけでなく。これはわたしたち一人一人に与えられている神からの召命であるということです。
そして、その時「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」とあります。
ここを私訳してみますと「見よ。わたしが立たせ、選び出した者。わたしの霊(いのち・ネフェシュ)によって喜ばせる。私は彼の上にわたしの霊(息・ルーアッハ)を置き、彼は国々のために裁きを導き出す。」となります。
この箇所には、二つの霊という言葉が使われていますが、一つは「ネフェシュ」、もう一つは「ルーアッハ」という言葉によって表されています。前者は、「いのち」という意味があり、後者には「息」という意味があります。つまり、私たちが与えられている神からの召しは、神ご自身のいのちと、神の息によって成されているということです。
そこに私たちの思いは介入しないのです。そして、私という存在がどうであろうとそれは神ご自身によって成されていくということを顕しているのです。
キリスト者として生きるということは、この神ご自身の働きによって私たちは生きるということであり、そこにただひたすらに委ねていくということです。
その思いをもって私たちは真剣に「はい、神の助けによって」と告白するのです。

この2014年の歩みの始めにあって、この主の洗礼の出来事を覚えるということは、今一度一人ひとりが、この神によって私という存在が変えられているということを思い起こすと同時に、恐れずにイエスが公生涯の歩みを始めたように、私たち自身も宣教の歩みをスタートさせていくということです。
私たちの下関教会は、来年に迎える100周年に向けて大切な一年を歩み始めました。
神が私たちの歩みを確かなものとしてくださいます。神が弱められている私という存在を折ることなく、力を与えてくださいます。この祝福と恵みの中にあるといことを覚えながら、互いに祈り合い、支え合いながら宣教の歩みを進めてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。