2013年12月24日火曜日

12月24日 クリスマス・イヴ燭火礼拝 礼拝説教

「主の栄光が世を照らす」


主日の祈り
この聖なる夜を真の光で照らされる全能の神さま。私たちを、この地上でみ子の臨在の光のもとに歩ませ、終わりの日に、その栄光の輝きに目覚めさせてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書9:16
1闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた2あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。3彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。4地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。5ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。6ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。7主は御言葉をヤコブに対して送り/それはイスラエルにふりかかった。8民はだれもかれも/エフライム、サマリアの住民も/それを認めたが、なお誇り、驕る心に言った。9「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き/桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう。」

第二日課:テトスへの手紙21114
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。

福音書:ルカによる福音書2:1-20

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

皆さんクリスマスおめでとうございます。
いよいよこの日、私たちの救い主であられるイエス・キリストが誕生をいたしました。この大いなる喜びを共にできますことを本当に嬉しい気持ちでいます。
このひと時、御ことばの説き明かしによってイエスがこの世にお生まれになった意味を改めて私たちは確認して行きたいと思うのです。

さて、このイエス・キリストは、救い主であられるということをキリスト者である人たちは、信じています。
では、何故イエスが救い主なのでしょうか。私たちはこのことをハッキリととらえていなければ、イエスが救い主であるということの恵みの半分を失うことになるでしょう。
そして、救い主という言葉を聴くとき、偉大な王様を思い浮かべるならば同様に私たちは、イエスが救い主としてこの世にお生まれになった意味を失ってしまうでしょう。

今日初めに見ていきたいのは、イザヤ書の預言の御ことばです。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」とイザヤは預言しています。まさに私たちの今生きる時代は、この暗闇の中にあるのではないでしょうか。たしかに東京でオリンピックが開催されることが決まったり、何となく経済が上向きになっているように見えて、未だに東日本大震災の被災者たちの悲しみの声は癒えていませんし、この人だと信じていた政治家たちの不正が発覚したり、もっとマクロに見るならば、未だにこの寒空の下、この日本においてもこの寒空の下で暮さねばならない人を私たちは知っています。
決して明るいとは言えない社会状況、時代状況の中にいるように思ってなりません。また、そのような状況の中にあって、今という事がらに必死で前を向いて歩くこともままならないような状況です。

イエスが誕生した当時もまたそのような暗い状況にあった時代でした。先代の王である父ヘロデが死に、その後は兄弟同士が血で血を争うような時代でした。そして、そのような内政状態に加え、周辺諸国からの圧力も加わり、民衆は不安と怖れの中にありました。具体的に言うならば、重い税がローマと、当時イスラエルを支配していた総督から二重に課されたりし、人々は抑圧の中に有ったのです。
そのような状況の中にまさに光として輝いて来られたのが、イエスなのです。イエスは、私たちの抱えるあらゆる暗闇の中で輝く光として、私たちのもとに来られたのです。そのことをイザヤは預言しているのです。

少し私たちと申しますと少し漠然としてしてしまいますので、今日は福音書に登場する羊飼いたちに目を向けてこの救いの出来事についてみていきましょう。
この時代羊飼いとは、自分で所有している羊を養うために働いているのではありませんでした。彼らは、いわばやとわれ羊飼いでした。その中で、働いても、働いても決して生活が向上するとかそういう身分ではなく、まさにその日暮らしがやっとの状況の中に落とされていたのです。様々な状況の中で、搾取する者と、される者という構造が出来上がり、この羊飼いは典型的な搾取される側の人々だったのです。
しかも、そのような中で、更に暗闇の中で、現代のように街灯がこうこうと一晩中町を照らすというような中ではなく、本当に真っ暗な荒野の中で、獣たちが羊を襲わないか番をし、ともすれば自分たちのいのちも危ぶまれるような状況の中にいたのです。

それは、大きな不安と怖れを抱きながら日々暮さねばならなかったということです。単純に、夜の暗闇が怖いということではなく、自分の存在、いのち、自分の価値を見いだせずに、心も体もほとほと疲れ果て、希望の無いような状態だったのです。
クリスマスのおとずれはまずそのような貧しい人々に知らされたのです。
当時イスラエルを統治していた王の所にではなく、この社会から無価値で、社会構造の中で底辺にいた人々の所にもたらされたということは、このことこそが神の救いにおいて最も大切なことだったからです。
神ご自身、この世を見たとき、本当の平和をもたらすために来られるとイザヤは預言しています。まさに、この平和でない社会の犠牲者の所にまずもってその知らせを御使いを通して知らせてくださっているのです。

しかし、この平和をもたらし、無価値なもの、涙する者、悲しみの中に暮れている人々のために来られた救い主は、偉大な姿をとって来たのではありませんでした、聖書に記されているように救い主イエス・キリストは、飼い葉おけの中におうまれになったのです。なぜならば、イエスの両親であるマリアとヨセフもまた宿に泊まるところもなく、やむなく家畜小屋で出産を迎えなければならなかったです。
誰が救い主の誕生が家畜小屋の中で起こると思ったでしょうか。当時ユダヤ人たちもまた救い主を期待していましたが、それはダビデのような偉大な王様の姿を期待していました。
しかし、神はそのような人間の思いに応えるのではなく、弱く乏しい姿で救い主を顕されたのです。

なぜこのような弱く乏しい姿を取られたのでしょうか。
結論から申しますならば、そこには神の深い人間への共感があったからです。神はただ単純に力をふるうことを良しとせず、まずもってそのような人間の悲しみ、痛み、苦しみにとことん共感してくださっているのです。
この共感のしるしが飼い葉おけに眠るイエスの姿に現されているのです。
救い主ご自身、十字架上で苦しまれ、痛まれ、悲しみを覚えつつ、私たち一人一人の罪を贖ってくださったという出来事が既にこの飼い葉おけのイエスの姿に顕されているということです。
この飼い葉おけのイエスは、まさに私たちの苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、痛みの象徴として、しるしとして顕され、このわたしの思いに神は応え、共感してくださっているということを顕しているのです。

そして、神の希望、御救いの光は、豪華絢爛な王宮のベッドでもなく、偉大な勇士の姿でもなく、弱く乏しいところにこそ輝き出で、そこにあるのです。ですから、お一人お一人が抱える悩みや、苦しみ、痛みの中に神は宿り、救いの希望を与えてくださっているのです。ですから、もはや私が抱える悩みや嘆きを一人で担う必要はないのです。
あなたの抱えることを神ご自身も深い共感によって共に担ってくださっている、負ってくださっているということをこの飼い葉おけに眠るイエスが示してくださったのです。
きっとこの家畜小屋の中も暗闇に満たされていたでしょう。しかし、そこに眠る神の子イエス・キリストがその暗闇のただなかに来て、わたしたちの希望の光、救いとなられました。

本当に素朴で、純朴な姿で私たちのすぐそばに神は居ます方であるということを私たちは今日御ことばから知らされているのです。
そのような知らせを羊飼いは、神より賜り、大きな喜びの中に置かれたのです。この無価値で、いのちも蔑まされている存在であった私に神は目を留めてくださり、神である身分を超えて、わたしの心に抱える暗闇のただなかに希望の光を注いでくださったという喜びです。
だからこそ、彼らは主の万軍の賛美の声に加わり、この救い主の誕生の知らせを告げ知らせる大切な役割に召されていったのです。

私たちもまた、この神の救いの出来事を喜びをもって告げ知らせてまいりましょう。あなたの悩みのただなかに来てくださる方がお生まれになったということを全世界に賛美の声をもって顕してまいりましょう。
あなたは、もう無価値ではありません。神の目に本当に価値ある命であり、あなたの全存在を肯定し、なおかつこの神のみことばを宣べ伝える召しを与えられています。この傷みからの回復が私たち一人一人に起こっています。
神の平和とはまさにそのように無価値だと思われている状態からの回復です。神の平和とは、傷付いた人々が、その中にあってなお、神共に居ますという希望の中に生き、傷がいやされていくことです。

クリスマスとは、そのような救い主が私たちのもとに来てくださっているという恵みを受け取るそのような時なのです。つらい私たちの現実に神様が希望の光としてみ子を遣わしてくださいました。この深い神の慰めと癒しにあることを覚えつつこのクリスマスの時を過ごしてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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