2013年9月18日水曜日

9月15日 聖霊降臨後第17主日 礼拝説教

「もれなく救済」

主日の祈り
全能・永遠の神様。あなたは、信じる者に、まことに貴い約束を与えられました。あなたの約束を信じて、あらゆる疑いに打ち克つ強い信仰を与えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。
本日の聖書日課

第一日課:出エジプト記32:7-14(旧147頁)
32:7 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 8 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 9 主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 10 今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」 11 モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。 12 どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。 13 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 14 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

第二日課:テモテへの手紙一1:12-17(新384頁)
1:12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。 15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

☆福音書:ルカによる福音書15:1-10(新138頁)
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3 そこで、イエスは次のたとえを話された。 4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日与えられている福音書の日課は、見失った羊のたとえと無くした銀貨のたとえという二つのたとえ話をイエスが徴税人や罪人たち、ファリサイ派や律法学者たちに話されたたとえ話です。
いずれのたとえ話も無くなっていたもの、見失っていたものが見つかるというたとえ話です。たとえ話自体は至極単純な話です。
見失った羊のたとえは、当時羊は大切な財産の一部でした。ヨブ記などを見ますと、羊が天からの火で焼け死んでしまったこと、そして、ヨブ記の最後には、失っていた羊が神様によって一万四千匹になったとつづられているように、ユダヤの人々にとっては大変重要な財産だったことをうかがい知ることができます。

また、銀貨も大切な財産です。みなさんもお持ちの聖書の後ろの方に聖書に出てくる単位についての解説が載っているページを開いていただければ分かりますが、1ドラクメとは、当時でいう1デナリオンです。ルカは、ギリシャ世界の人間ですから、読者がギリシャ語を読む人だったのでドラクメで表現していますが、いずれにせよ、1デナリオンとは、1日の賃金にあたるそうです。
そのドラクメ銀貨10枚のうち1枚が失われたのですから、この女性のように家中を探し回るのは当然でしょう。そして、それが見つかったことは、大きな喜びと共に安心を得ることではないかと思います。

しかし、このたとえ話はただ単純に見つかったものが見つかったら喜ぶだろうという話をされたのでしょうか。そうではありません。二つのたとえ話失われていたものが、その人のもとに戻ってきたということが主題であると思います。しかも、それはただ単純に無くした、見つけたという問題ではないのです。もっと根本的で、深い神様の出来事がここには示されているのです。

まず、このたとえ話を話されるうえでイエスが置かれていた舞台設定を見ていきましょう。
イエスは、この時、近づいてきた徴税人や罪人たちと食事をしていたという場面が1節、2節に記されています。
このことは、ユダヤ人の人々から見ればありえない、あってはならない光景が目の前に広がっていたのです。なぜならば、この両者は、ユダヤ人たちから見るならばもっとも関わりを持ってはいけない人々だったからです。
当時、徴税人というのは、当時の支配者であったローマにくみする者として大変嫌われていました。同胞の者たちから税金を搾取し、ましてやそこからマージンを取って税金をピンハネしていたような者も居たからです。敵国のような存在に心を売った裏切り者、同胞を苦しめる者として嫌われ、関わりを敬遠されていました。

そして、罪人は言うまでもなく、そのような者と関わりを持てば自分たちも罪に陥ってしまうのです。なぜならば、罪人に触れられた者もまたその罪が伝染し、相応しい清めの期間を過ごし、清めの儀式とささげ物を献げるということが律法によって定められていました。自分がどれだけ正しいかということが救いに与る最良の方法だと考えていたユダヤ人たち、特にファリサイ派や律法学者といったユダヤ人の中の有力者にとっては、益々あり得てはならない状況を目の当たりにしていたのです。

だからこそ、2節で「この人は罪人を迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。」と記されているのです。
しかし、このファリサイ派と律法学者たちの言葉に既に神の救いの出来事が記されています。
それは、「迎える」という言葉です。
この言葉を聴いて皆さんは、どう思うでしょうか。あぁ神様はなんて優しいお方だと思うでしょうか。あぁ私を招いてくださっていると思うでしょうか。あぁ神様は罪人こそ迎えてくださっているのだと思うでしょうか。
だからこそ、この招きに私たちは応えていこうと思います。
しかし、これはたしかにそういう一面もあるでしょう。しかし、実を言うならば、もっともっと奥深い神の出来事がこの言葉には顕されているのです。

たしかに迎えてくださっているという要素もありますが、むしろこのファリサイ派や律法学者たちの言葉をギリシャ語に戻って直訳するならば、「迎えて」という意味よりも「受け入れている」という意味になります。
つまり、ここでは罪人や徴税人たちとも食事をしてくださる優しいイエス、憐れみ深いイエスという以上の出来事が起こっているのです。

つまり、イエスは、誰からも相手にされず、社会からもつまはじきにされ自分の存在や、尊厳を小さくされている人々、誰もその人の存在を受け入れようとしないような存在をその身に受け止めてくださっている。ここの言葉が受動態で記されている通りです。しかも、食事を共にするということは、ユダヤ教にとってもとても大切なことでした。
ユダヤ教においては、安息日の礼拝の跡には、共に食事をするそうです。主の恵みに与った兄弟姉妹たちとの交わりを大切にしているということです。

しかし、ここでイエスと共に食事をしている人々は、その交わりから漏れている人々です。誰も交わろうとしない存在です。先ほども言ったように社会の中では圧倒的に弱くされ、抑圧と、惨めさの中で生きねばならない。交わりも断たれ孤独に生きねばならない存在でした。イエスがそのような存在とされていた人々との交わりをしたということは、そのことからの回復を意味しているのです。
何もかも失われ、自分は罪ある状態のまま死なねばならない存在かもしれない、神の御救いから漏れてしまった存在かもしれないという不安と怖れの中で生きねばならなかった人々にまさに御救いの出来事を示してくださったのです。
ですから、ここで食事を共にしたということは、ただ単純に食事の席が設けられていて、そこで楽しく食事を楽しみながらイエスの話しを聞く時間ということではないのです。

ここでは、罪人、徴税人たちの存在が回復され、あなたたちを私は受け入れる、受け止めている。あなたの悲しみも、不安も、恐れも、孤独感もありとあらゆる辛苦を知っている、私との交わりを回復されているというイエスの深い愛が示されているのです。愛が示されているということは、そこに救いの出来事が起こっているということです。ただ単純に舞台設定しているのだと思われている御ことばが実は、私たちに与えられている福音として響いているのです。

このことを受け取りながらたとえ話を読むならば、このたとえ話がただ単純に見つかったものが見つかったから喜ぶという例話でないことが明らかにされます。
つまり、ここで失われていたと思っているのは、私たちなのです。神は決して見失っていない。私という存在を神はとらえて離さないのです。けれども、私たちは何時の間にか罪人、徴税人というような存在の人々を社会から追い出してしまう。周辺へと追いやろうとしてしまう。そのような人々の振る舞いを否定してしまう。
その人の存在を見えないように、あるいは見ないようにしてしまうのです。

本来であれば、誰が罪人か、誰が裁かれる存在かということは、私たちの側に無いのです。
今日の第一日課に記されているように、すべての事がらのイニシアチブは、神の側にあるのです。神が裁くというならばそれが起こり、裁かないというならばそれはまだ起こらない。神があなたを救うと言えばそれは起こるのです。
私たちは、生きている中で様々な誘惑に合い、あたかも自分は正しい人間であるということを誇ろうとしてしまいます。私こそ神様の救いに与るにふさわしい存在である。社会で中心の存在である、教会で中心の存在だと思う。
しかし、そうではないのです。私たちは、どこまでいっても神の御前においては正しさなど一つも誇ることができない存在でしかないのです。私たちは本日の福音でイエスと共に食事に与っている罪人、徴税人なのです。

そのような存在であるということを私たちは御ことばによって深く悟ることが知らされているのです。
それならば救いは無いのか。そうではありません。
この二つのたとえ話の最後にイエスが語っているように、神は「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」と私たちに語りかけます。つまり、罪人の悔い改めを何よりも喜んでくださっているのです。私は何をしました。私はこれだけ正しいということを神に言うのではなく、素直な心で、純粋に私はあなたの御前に罪を犯しました。どうか赦して下さいと自分の罪を露わにすることを神は喜んでくださるのです。

そして、そのことをイエスは、見失っていた一匹が見つかったこと、ドラクメ銀貨が見つかったこととして話しています。ここで使われている「失う」という言葉は、ほかに「滅ぼす」とか「死ぬ」という意味があります。
つまり、私たちは罪によって滅ぼされるべきそんざいであった、死ぬべき存在であった。しかし、神はそのような私たちを見つけ出し、交わりを回復し、深い憐れみを示し、何よりもあなたは私の大切な存在であるという愛を示し、私たちをみ救いへと導いてくださったのです。

パウロは、罪に死に、キリストによって生きると証ししています。まさに私たちは、この罪に死すべき存在です。けれども、キリストによって生きる者とされているということがこのたとえ話に既に示されているのです。キリストに生きるということは、キリストの十字架の出来事、復活によって示された永遠のいのちの約束の中に生きるということです。
罪によって陥る不安や、疎外感、孤独感という暗闇の中に歩まねばならなかった私という存在が、キリストの十字架と復活という希望の光の中で歩むことが赦されたのです。

私たちは、この深い神の憐れみと愛に富んだ出来事の中に置かれています。すぐに自分の正しさや、誇りを示したくなります。けれどもそうではなく、神の御前に本当に謙って、示すべきは自分の罪深さ、自分は罪人であるということです。
しかし、そのことに絶望することはないのです。今日イエスは私たちにそのことからの回復を私たちに示してくださっています。そして、絶望ではなく、希望を抱いて生きることができるという福音を示してくださっているのです。私たちの生は、そのような神の深い憐れみと愛の出来事の中にあることを憶えながら今週一週間も過ごしてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

9月8日 聖霊降臨後第16主日 礼拝説教

自分を捨てられますか?

主日の祈り
永遠・全能の神様。あなたはキリストによって、すべての民に栄光を顕されました。み霊を注いで、み名を告白する堅固な信仰に、全世界の教会を立たせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課

第一日課:申命記29:1-8
29:1 モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。あなたたちは、主がエジプトの国で、ファラオおよびそのすべての家臣、またその全領土に対してなさったことを見た。 2 あなたはその目であの大いなる試みとしるしと大いなる奇跡を見た。 3 主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。 4 わたしは四十年の間、荒れ野であなたたちを導いたが、あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった。 5 あなたたちはパンを食べず、ぶどう酒も濃い酒も飲まなかった。それは、わたしがあなたたちの神、主であることを、悟らせるためであった。 6 あなたたちがこの所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグは我々を迎え撃つために出て来たが、我々は彼らを撃ち、 7 彼らの国を占領して、ルベン人、ガド人、マナセの半部族の嗣業の土地とした。 8 あなたたちはそれゆえ、この契約の言葉を忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちのすることはすべて成功する。

第二日課:フィレモンへの手紙1-25
1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、 2 姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。 3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 4 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。 5 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。 6 わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。 7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。 8 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、 9 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。 10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。 11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。 12 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。 13 本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、 14 あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。 15 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。 16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。 17 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。 18 彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。 19 わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。 20 そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。 21 あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。 22 ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。 23 キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。 24 わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。 25 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

☆福音書:ルカによる福音書142533
14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

私たちは、キリストと出会い、キリストの御ことばに慰められ、励まされ、時に啓発されます。そして、このキリストの御言葉との出会いを通して、キリスト者へと導かれ、私たちはキリスト者としての歩みを日々歩んでいます。
何気ない日常を私たちは、過ごしますが、その一つ一つの時がキリスト者としての歩みとなっていくのです。
その中で、キリスト者とは何かと考えた時、それはイエスの弟子となることというのも一つの解答であると思います。弟子の働きには様々ありますが、いずれにせよかいつまんで言うならば、すべてのキリスト者は、イエスの弟子であると言えるでしょう。

このようにイエスの弟子である私という存在を見つめるとき、ではイエスの弟子であるということはどういう事かということを考えずにはいられません。その中で、人は、社会福祉の事がらに従事すること、与えられている仕事に従事すること、福音を宣べ伝えることに従事することなどの召しを与えられ、その神の召しに私たち一人一人は応える人生を歩んでいるのだと思うのです。

では、その弟子として歩むことの根本は何か。
それが今日与えられている御ことばによって明らかにされているのです。
イエスは、御自分についてくる大勢の群衆に向かって言います。
 26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 
33自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
イエスが群衆たちに述べたこの弟子の条件を聞くと非常に難しさを憶えます。
私たちは、それぞれお一人お一人に「父、母、子供、兄弟、姉妹」が居ます。そして、自分の命もあります。そして、これらイエス様が列挙したものを大切にしたいと願っていますし、実際に大切な存在です。
ましてや、自分の命は、欠かせないものであると思います。
しかし、イエスは、私たちが大切にし、時に私を支えてくれる存在を憎まないなら私の弟子ではないというのです。

この「憎まない」という言葉は、ギリシャ語で直訳するならば、「少なく愛する」です。つまり、イエスは、愛する対象は、ここに挙げた存在ではないということを言っているのです。
本当に愛する対象は誰かということを明らかにしているのです。私たちは、キリスト者として十戒を聴いています。そして、神は父母を敬えと戒めます。しかし、それは何が前提か。ただ単純に父母を敬えば良いのか。自分たちの兄弟姉妹、いのちを愛せば良いのか。
そうではないのです。私たちが、それらのものを本当に愛することができるのは何故かということを突き詰める必要があるのです。そして、言ってみれば、そのことなしに他者や自分の命への愛はあり得ないということを覚える必要があるのです。

今日与えられた御ことばの背景にはセム語的な考え方があるという神学者があります。
光と影、真理と偽り、愛と憎悪というように、半分陰影のあるような中間色があるような「あれもこれも」ということではなく、「あれかこれか」ということを好んで用いたのです。ですからセム的な言い方をするのであれば、「あれよりもこれが好きです」ということは、「これが好きであればあれを憎む」という表現になるのです。

こういった背景を知るとイエスの御ことばの真意が分かるのではないでしょうか。つまり、イエスは、何も「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 」と語っているのは、それを憎めというのではなく、先ず第一とする存在があるということを明らかにしているのです。

そして、それに続く自分の十字架を背負うということは、ただ単に重荷を背負うということではないのです。十字架とは、罪の象徴です。つまり、ここでイエスが語ることは、真剣に私たち一人一人が自分のうちに内在する罪を見つめ、それに目を背けるのではなく、それを担って、私についてきなさいと言うのです。
そして、そのことを神の御前に正直に告白する。私の罪を露わにすることを恐れるなということをイエスは私たちに伝えているのです。

なぜならば、それは究極的にはイエスご自身によって贖われるからです。私たちは、救いに与るには何か自分の身も心もきれいな状態でいなければならないと思ってしまいます。そして、イエスの時代そのような考えが蔓延していました。いかに自分が清廉潔白な存在かということを証明すること、それに執着していたのです。しかし、イエスはそのような人間の思いに否を唱えたのです。そうではなく、むしろ自分の十字架、罪を見つめ、それを担って私に従い、神の御前に立ちなさいというのです。

ここで旧約聖書を見てみましょう。
今日与えられた第一日課は、申命記29章です。ここは神がイスラエルの民にホレブで結んだ契約とは、別にモアブで結んだ契約のことばです。モアブは、カナンのすぐ手前です。そこで神は、イスラエルの荒野の40年の出来事を想起しながら語りかけます。
今まさにカナンに入ろうとしている中で、改めて40年の荒野での出来事を通して、イスラエルはその中でも迷い、時に神に背きながら、そして、本当に私たちは救われるのか、約束の地などあるのかという不安の中で歩まねばならなかった。

その、怖れと不安の40年の歩みのクライマックスに神は、神の出来事を明らかにするのです。
「わたしは四十年の間、荒れ野であなたたちを導いたが、あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった。 5 あなたたちはパンを食べず、ぶどう酒も濃い酒も飲まなかった。それは、わたしがあなたたちの神、主であることを、悟らせるためであった。 6 あなたたちがこの所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグは我々を迎え撃つために出て来たが、我々は彼らを撃ち、 7 彼らの国を占領して、ルベン人、ガド人、マナセの半部族の嗣業の土地とした。」

神は、私たちの恐れや疑いの心、不安な心を御存知です。そして、そのことを見逃しません。背いたときには、はっきりと怒り、不安な時にはそれを取り除いてくださっていたではないか。ましてや、あなたたちの着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかったではないかと言うのです。つまり、それはあなたたちが如何なる時であってもわたしがあなたたちを導いていたという真実を明らかにしています。
私たちがどんなに困難や苦難を憶え、生きることのむずかしさ、寂しさ、辛さを味わおうとも私はあなたと共に居るということをこのとき、しめしてくださったのです。

私たちは、イエスの弟子として歩むとき難しい選択を迫られます。先ほども言ったように、「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」ということを通して、誰をまず第一に愛するかということ、自分の罪を露わにしながら歩むということ、これらは、本当であればできれば避けて通りたい事柄です。
やはり、自分の命の方が大事だと思ってしまいます。私は清廉潔白で、信仰によってこれだけ祈っている、あなたに従うためにこれだけのことを行っていると誇ろうとし、自分の弱さや、時にそのことを通して神の御旨ではなく、自分の思いを大にするという罪に陥ってしまてっている自分を隠そうとしてしまいます。

今日の福音書の最後に
「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
と言うのは、言い換えるならば、自分の弱さも、自分の生きてきた中で得てきたことも全部無にして神に委ねよとイエスは語っているのです。二万の兵を前にした一万の兵を率いる王のたとえにおいて、「和を求めるだろう」という言葉は、言ってみれば全面降伏です。
そのことをイエスとの出会いの中でとらえるならば、イエスの恵み、イエスの語る福音を前にして、そのことに全面降伏せよということです。それが、自分を無にして、イエスの贖いの十字架、救いの御業、御ことばに委ね、従うということなのです。これがイエスの弟子として歩むことであるというのです。

自分の無にする時、やはり私たちには怖れや不安を抱きます。しかし、神がモアブでイスラエルに「8 あなたたちはそれゆえ、この契約の言葉を忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちのすることはすべて成功する。」と語りかけたように、神の御ことばに従う者は、その後の出来事においてそれらはすべて導かれ、なすべきことを成すことができると約束してくださっています。
この申命記の箇所をパウロもローマの信徒への手紙11章の中で引用しながら、神の御ことばに従うということは、神の恵みによってなっていく、決して自分の行いではなく、神の御ことばによって私たちの生は導かれ、御国へと至る、救いに与るというのです。

私たちはイエスの弟子として歩むとき誇るものはありません。むしろ、自分の弱さ、自分の得て来たもの、大切なものをまず無にし、むしろそれを正直に担い、神に差し出す。そこから始まる神の愛によってもたらされる救い、大いなる恵みに委ねていくことへと招かれています。恐れる必要ありません。自分を無にしたとき、かえって大いなる神の恵みを受け取るものとされ、それまでの生よりも豊かな生が備えられているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。



9月1日 聖霊降臨後第15主日 礼拝説教

お返しのできない恵み

主日の祈り
永遠・全能の神様。あなたはキリストによって、すべての民に栄光を顕されました。み霊を注いで、み名を告白する堅固な信仰に、全世界の教会を立たせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。
本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書922-23節(旧)1194
9:22 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。 23 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

第二日課:ヘブライ人への手紙131-8節(新)418
13:1 兄弟としていつも愛し合いなさい。 2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。 3 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。 4 結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。 5 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。 6 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」 7 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。 8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

☆福音書:ルカによる福音書147-14 節(新)136
14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。 8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


今日の福音書の日課は、ファリサイ派の人々との食事の席で語られたイエスの福音です。今日の福音を一見するとイエスは、そこに居た人々に、食事に招かれたときに恥をかかないためのテーブルマナーを語っているかのように見えますが、そうではありません。
本日与えられた福音の主題は、神の救いの出来事において必要なことは何かということを教えてくださっているのです。

私たちは、「もっと」ということを求める生き方をしているのではないでしょうか。
もっと便利にという思いが、様々なことの革命や、革新を生んできました。移動手段一つをとっても、昔は徒歩で行っていた道のりを、馬を扱ったり、自転車を開発していきました。そして、それがやがてモーターという物を発明してバイクや、自動車という物を発明していきました。
また、手紙もそうです。始めは人力で運んでいたのが、時代を経るにつれて、手紙は手書きではなくパソコンで、相手に届ける方法は、何日も欠けるのではなく、インターネットで一瞬にして地球の裏側に居る人に届くようになりました。
もっとという人々の思いがそういった進歩を生んだのです。

しかし、同時にこのことによって、人間はあたかも自分たちは、何でもできるという思いを抱かせます。パソコン一つとっても決してそれは私の仕事ではなく、パソコンの機能が素晴らしくてできているのに、それを自由自在に操って、色々なものを創出し、あたかも自分が成したかのように、自分の功績のように錯覚してしまいます。
私自身も仕事のかなりの事がらをパソコンに頼っていますが、時折そういう思いに捕らわれます。けれども、よくよく考えて見るならば、それは確かに人間が作り出したものではありますが、決して人間の業ではなく、機械の業です。
それをあたかも私の業かのように錯覚してしまうのです。これは注意しなければなりません。

恐れずに言うならば、この思いはあたかも自分が神にでもなったかのように思わせるからです。何でもできる。文章を作成することはもちろん。インターネットで買い物も、知識も得ることができる。これさえあれば、私は何でもできると思い込んでしまうのです。そして、それが色々とニュースになっているようにネットのいじめや、誰かの書いたことに対する誹謗中傷、批判による炎上という行為にいたるのです。
この画面を通して、他人を裁き、自分が正しい存在であると錯覚させ、傲慢な思いにさせるのです。

何も今日の説教で私はパソコン批判をしているのではありません。私たちは、パソコンの事に限らずともいつでも傲慢に陥る危うさをはらんでいるということを述べたいのです。
今日の第一日課で読まれたエレミヤ書に記されているエレミヤに臨んだ神の御ことばを見てまいりましょう。
神はハッキリとエレミヤに告げます。「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな」
ここに列挙されている事がらを人間が得た時起こりうることは、まさに誇ることです。そして、それが行き過ぎて驕り高ぶるという事態を招きます。

私はほかの人よりも知恵があるから、馬鹿はしない。そんなことをするなんてあいつはなんて愚かなのだと他人を裁く結果を生みます。力ある者、それは権力かもしれません。それを得たことによって自分は何か素晴らし者、他者とは違う存在になったかのように錯覚し、やはりここでも他者を裁いたり、自分自身傲慢になる恐れがあります。
富においても、確かに私たちはもっとお金があればと願います。しかし、それを得て傲慢になり、鼻持ちならない人をたくさん見てきました。

この神の御ことばは、そういう人間の真実の姿をあぶりだす御ことばなのです。私たちは、そういったものを得た時、誇ろうとしてしまう。何か自分が神にでもなったかのように振る舞ってしまう。本当は、そうではなくそれを得た背後にある方の姿を見なくなってしまうのです。

そして、それは神によって導き出されたイスラエルの人々自身そうでありました。
十戒の最初の文章を皆さんは覚えているでしょうか。十戒を唱える時、まずその最初にある文章は、「わたしはあなたがたの神であって、あなたがたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という文章です。
これは何もイスラエルの人々だけに語られている御ことばではありません。聖書を通して私たち一人一人に語りかけられている神の御ことばです。

私たちはこのことを真剣にとらえる必要があるのではないでしょうか。このことから浮き彫りにされるのは、私たちは捕らわれ人であったということです。それは具体的に誰かの奴隷とされていたということだけでなく、何かの奴隷状態にあったということです。
それは、今日の第一日課で語られているように、知恵、力、富様々な姿を取って私たちを捕らえて離さなくするのです。それらのことにわたしたち自身も固執し、それによっておごり高ぶってしまうのです。
このことをルターはハッキリと悪魔に捕らわれていると言い切ります。私が得た物をわたしが得たと思い込んだとき、それは悪魔になってしまう。私たちを誘惑し、傲慢へと陥らせるものになってしまうのです。
本当は、私たちを支え、導いてくださり、必要を与えてくださっているのは、神ご自身であるのに、そのことの目をくらませてしまうのです。

しかし、今日の御ことばは、そうではないということを語っています。
第一日課の23節に神は私たちに「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」と告げています。
「この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事」と書かれているところは、一人称です。つまり、私たちに起こりうる、与えられるすべての事がらが神の御業の中にあるということを示しているのです。
私たちは今日このことをしっかりと私たちの心に、信仰に刻む必要があるのです。

そして、そのことにおいてどういう神の御業が働くかを福音においてもイエスは、私たちに今一度伝えています。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」という御ことばがそれです。
ここで「低くされる」というのは、「謙る」という言葉と同じ言葉です。私たちはどうしてもおごり高ぶりに陥る、けれどもそうなってしまった人間をあらためて神は、謙る者としてくださるのです。そして、謙る者を「高められる」のです。
そして、この「高める」というのは、天国という言葉の動詞形です。それは神の御前に謙る者は、神の国に上げられるということ、つまり、救いの御業に与るということを示しているのです。

さらに言うならば、ここで語られている御ことばは、すべて受動態という形で記されています。
つまり、それは私が謙ったから救いに与るという能動的な、私の業ではなく、神の業が私に働くということです。
私たちは、神によってそういう者とされ、神の御救いの業を受ける者とされるのです。
神の御救いの御業において、私という人間が介入する余地はないということをイエスはハッキリと私たちに示したのです。

そして、そのことを示されたイエスはさらに私たちに「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」と語りかけます。
この福音を知らされ思い出す讃美歌があります。それは讃美歌の536番です。
歌詞は「むくいをのぞまで ひとにあたえよ、 こは主のかしこき みむねならずや 水の上(え)に落ちて、 ながれしたねも、 いずこのきしにか 生いたつものを」という歌詞です。
私たちは、普通であれば何か見返りを求めてしまいます。けれども、そうではない、神がわたしを導き、救ってくださっているのだから、もうそのような物を求めなくてよいということです。

むしろ、神に委ねて生きるということを神は告げているのです。報いを望まずに与えることは、神の御旨である。水の上に落ちて流れいく種もどこかの岸につき生い茂るという536番の歌詞にあるように、私たちは神の御旨に生きる時、小さな、小さな種が生い茂り、木となり、実を生らすように、私たち自身も神の御業に委ねる時、神の御業を示す者とならしめるのです。

水の上に落ちる時、それは不安を覚えるかもしれません。流れるほどの水ですからそれなりに水の量もあります。蛇行したり、急流になったり、時には滝のようなものが待ち受けまっさかさまに下に落ちることもあるかもしれません。けれども、神はそのような種を生かしてくださる。神の業を成すものとしてくださるのです。
この大いなる神の業に私たちは生かされています。ですから、何かを誇るのではなく私たちは、ただただ神の御業に頼り、神ご自身がわたしに働いてくださるという恵みを誇りましょう。私の何かを誇る必要はない自由な生き方を私たちは示されています。

何事も誇ることのない生への招きを与えられ、そして、人の目には惨めで、小さい者に神の御業が働いています。誇ることがないことに恐れる必要はありません。神があなたがた一人一人に働き、み救いへと導き、本当は何事にもとらわれない自由な者へとしてくださっているのです。
この神から与えられる本当の自由の中に生きる喜びを抱きながら今週一週間も歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

8月25日 聖霊降臨後第14主日 礼拝説教

狭い戸口

主日の祈り
主よ。あなたの民が切にみ助けを求め、救いの恵みを喜ぶことができるように、その心を奮い立たせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書6618-23節(旧)1171
66:18 わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。 19 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。 20 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。 21 わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。 22 わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。 23 新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと/主は言われる。

第二日課:ヘブライ人への手紙1218-29節(新)418
12:1819 あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。 20 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。 21 また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。 22 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、 23 天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 24 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。 25 あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。 26 あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」 27 この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。 28 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。 29 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

☆福音書:ルカによる福音書1322-30 節(新)135
13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日の福音書の箇所は、私たちキリスト者にとって実に素朴で単純な神への問いかけの言葉ではないでしょうか。
私たちは、この世で生きる限り様々な辛苦ということを味わい、その中で呻きながら生きています。ですから、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という問いかけは、私たち一人一人の神への問いかけとなっていくことは自明のことです。神は、すべての人を救ってくださると語りかけてくださっているのにもかかわらず、やはり私たちは、救われる人がどれほどいるのかということが気になってしまう存在です。

そして、そのような問いかけの中でいつの間にか楽観的になっていないでしょうか。なぜならば、神は、私たち一人一人を愛し、すべての人を救ってくださっているから大丈夫だ。ましてや、私は洗礼を受けて、キリスト者として歩んでいるのだからなおさら大丈夫に違いないと思ってしまうのです。

始めに今日の福音の主題を述べてしまうならば、救いの出来事は、神の側にあるということです。
私たちは、つい神の救いに与るためには、何か資格が必要で、それをクリアすることによって救われるというふうに考えてしまいます。ともすれば、洗礼もその手段、方法論のように考えてしまいます。

今日の福音に登場する質問者もまたそのように考えていたのです。当時、イスラエルの人々の考え方は、私たちこそ救いに与るにふさわしいという考え方でした。それが先鋭化していた集団がファリサイ派であり、律法学者、祭司という人々でした。私たちこそ、この世界で救われるべき存在であるという、ある種の選民意識があったのです。
だからこそ、人々はもしかしたら自分はこの神の救いの名簿から漏れているかもしれないという不安を抱えて生きねばならなかったかもしれません。

そして、それがいつの間にかこれをすれば神の救いに与ることができるという考え方がはびこり、救いが人間の側の行いや、言動、人となりに左右されるようになってしまっていたのです。
そのようになってしまうとき私たちの間に生まれるのは、裁くということです。あの人は、これをしていないから駄目だ、私は一生懸命奉仕しているから救われるはずだという意識です。
聖書は、そのような人間の姿をファリサイ派や祭司たちの姿を通して明らかにしています。

しかし、本日の福音において語られている「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの御ことばは、そのような人間の在り方に否を唱えているのです。
狭い戸口ということは、私たちが望んでいるような豪華で、きらびやかな戸口ではないということです。私たちは天国に入る戸口は、どういう姿かと想像する時、おそらくそういう姿の戸口を想像するでしょう。そして、その戸口を通って神の御許につきたいと願います。

ここにも神と私たち人間の思いとの間にかみ合わない点があるのです。救いという素晴らしい出来事は、実は非常に私たちにとって困難さを伴うのだということを思わされます。つまり、私たちは、この狭い戸口を見つける旅をこの世において続けているということです。

そして、このことの真理が25節に記されています。それは「ご主人様、開けてください」というたとえの中に出てくる言葉です。ここで「ご主人様」と語られていると、何かそこに主従関係のような関係性があるように思いますが、ギリシャ語に遡って観るならば、これはそういう主従関係ではありません。

ただ単純に、ある家の主人に戸をあけてくれという願いです。つまり、その家の主人に対する別の家の人が戸を叩くいわゆる呼びかけです。つまり、この箇所で登場する主人とは、文字通り「家の主人」のことであり、この家の戸を開けるかどうかということは、その主従関係においてどのような関係性であったかということは、意味をなさないのです。戸を開けるかどうかは、この主人にすべてかかっているということです。

このことを通して、先に行ったことがより明確になります。
つまり、私たちは、私が救われるということを考える時、どうしても何か自分の側に主体があって、私という存在が主体的に働いていくことが大切であると捉えてしまう、その人間の在り方にイエスがそうではないと唱えたのです。
家の戸を開けるかどうかが主人の側に主体があるように、私たち一人一人の救いの出来事もすべて神の側に主体があるのです。

神がわたしたち一人一人に働くことによって救いはもたらされるのです。
救いの主体はあくまでも神にあります。決して、私たち人間の側にあるものではないのです。
こちらの意思に神が合わせて戸を開けるのではない。これが救われるために努めることの第一点であると言っていいでしょう。

そして、この主人は、私たちに対して「不義を行う者ども」と厳しい言葉を投げかけます。ですが、これが私たちの本来の姿なのです。私たちは、神の御前において不義を行う者でしかないのです。神の出来事を、人間の出来事にしてしまうという傲慢さ、そのことによって人が人を裁いてしまうという罪を露わにするのです。

ですから、私たちは、このことを深く自覚し、見つめ尽くし、このことを悔い改めていくのです。
戸口はいつまでも開いていません。いつか閉ざされるのですから、私たちは、それこそ努めていくことが大切でしょう。だからこそ、天国に入る門は、狭いのです。私たちは、つい自分のことを棚に上げてしまう。神がすべての人間を救ってくださっているのだから、何もしなくても良いという怠惰な心が生じてしまう。

下関教会のティーンズ礼拝での罪の告白では、私たちが主日で使う言葉に加えて、「行いと怠りによって罪を犯しました」と告白します。私たちは、行いによっても、怠りによっても罪を犯す存在なのです。
だからこそ、神の御救いに与るために努めていくこと、自分を徹底的に見つめ、自分の罪を暴いていくこと、悔い改めていくことが大切なのです。

ルターは、私たちの救いの出来事は、行いによってではなく、神の義によってもたらされると語っています。しかし、同時にあの95か条の提題の第一提題に「わたしたちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めなさい・・・」と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」と語っています。

私たちの人生とは、ルターが語るように全生涯が悔い改めそのものとなっているのです。決して、私は救われているといおごり高ぶるのではなく、日々、その時、その時、悔い改めつつ、神の御前に本当に謙っていくそのような生を生きるのです。

ですから、この質問者の質問は、的外れな質問であるということが明らかにされます。つまり、救いに与る者が多いとか、少ないとかという物差しは、無いのです。
本来であれば、私たちは誰ひとり神の御前に正しくない、不義を行う者なのですから、救いに与るにまったくもってふさわしくないのです。しかし、そのような私たちのために神は、愛する御子をこの世に遣わし、神の御ことばを語り、神の出来事の神秘を示し、そして、私たちのそのような罪を贖うために十字架に架かり、死んでくださったのです。

イエスご自身、罪が全くなかったのに、私たちの罪のゆえに死んでくださった。私たちは、この真実に心から打ち砕かれなければならないのです。そして、この出来事によって、神は私たち一人一人が本当に謙り、悔い改めの生へと招いてくださっているということを心に刻んでくださっているのです。それは、一人一人の心に刻まれた十字架です。

キリスト者として生きていれば、それは済んだ、済んでいますとは言えません。私たちは生きている限り、このことを努めていくのです。しかし、それが徒労に終わることはありません。パウロがコリントの信徒に「924あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。25競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」と語っているように、私たちは主の栄冠を受けるために走るのです。努めるのです。

その先にある主の御救いの出来事がある。そのことに希望を抱きながら、同時に神を畏れながら、この悔い改めの生を生きてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年9月14日土曜日

8月18日 聖霊降臨後第13主日 礼拝説教

主は見逃さない
主日の祈り
神様。あなたは思いにまさる喜びを、愛する者に与えられます。すべてにまさって、あなたを愛する心を私たちの中に興し、私たちの願いを超えたあなたの約束に与らせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書232329
23:23 わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。 24 誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。 25 わたしは、わが名によって偽りを預言する預言者たちが、「わたしは夢を見た、夢を見た」と言うのを聞いた。 26 いつまで、彼らはこうなのか。偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、 27 互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちがバアルのゆえにわたしの名を忘れたように。 28 夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと/主は言われる。 29 このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。

第二日課:ヘブライ人への手紙12:1-13
12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。 6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」 7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 13 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

福音書:ルカによる福音書124953
12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。 53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、わたしたちにあるように。アーメン。

始めにはっきりと言ってしまうならば私たちが生きるこの世の中は、決して平和とは言えないでしょう。
何も世界情勢的な面からでなくても、個々人のことに目を向けてみてもそうかもしれません。本当に現代社会に生きる人々の心は傷つきやすく、もろくなってしまっています。
そして、そのような人は一層その人自身の存在を弱められていきます。社会の中でちゃんと生活できないのは、その人が悪い、もっと強くなればいいのだと、自分のそれぞれの価値観を押し付けてしまいます。

そして、それはともすれば教会の中でも起こりうることです。教会とは、人と人とが集い、神の御ことばに聴く場です。そのような中で、やはり色々な人が集います。
その中で、もしも心に疲れを憶え、日々の暮らしに疲れ果てた人が居たとします。そしてそのことに本当に心を痛めていらっしゃる。どうしたらこの苦労が報われるのか、払われるのか、困難から抜け出せるのか。そういう思いを神に聴きに来る方、また私の信仰が弱いからいけないのだと思ってしまい、信仰を持っていることにすら苦しんでいる方もいらっしゃいます。

そういった苦難を、困難さを私たちはいつでも抱えている存在です。
そのような中で私たちは、できるだけ苦しまずに、悩まずに、悲しまずに生きたいと願います。私自身もそのような弱さを持っています。私はある時から怒りという感情をなるべく抱かないように生きていこうと決めたことがあります。
それは、何故かと言うならば怒れば怒るほど自分の感情を抑えることができなくなり、益々気分が落ち込んだり、苦しかったりするからでした。怒らなければ平安に、安心して生きていけると思っていたのです。しかし、そのように生きていた数年間は、ちっとも安心した気持ちになれませんでした。

なぜならば、なるべく怒らないようにとびくびくしながら生きていたからです。人間関係においてもそういう怖れを抱いていますから、なかなか本気になって人と向き合うということができなくなっていったのです。怒りと言う感情を持たないように生きたら平和に、平安に生きていけると思っていたのですが、そうではなかったのです。
平和に生きたいという願いを私たちは持っています。そして、そのことを実現しようと色々な手段をこうじます。しかし、それが中々うまくいかない、いってないのが今私たちが置かれている社会、現実なのではないかと思うのです。

では、どうしたら本当に平和に私たちは生きることができるのでしょうか。
聖書に聴いて生きましょう。
今日、与えられた福音書の日課は、「分裂をもたらす」というセンセーショナルな表題の付けられた福音書箇所です。私たちは、神から平和、平安を与えられているという教えを御ことば受けています。しかし、今日イエスは、そうではない「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」と語ります。
一見するとこれはイエスが何か恐ろしいことを語っているように思います。「火」と聞くと、私たちはパッとイメージすることは、あまりポジティブなイメージではありません。どちらかと言うと、火はあらゆるものを燃やしますから、滅びとか、その者が消されるようなイメージを持ちます。火とは恐ろしいという思いを抱きます。

しかし、ここで語られている火とは、そういう私たちのイメージを覆す火なのです。
あえて言うならば、私たちはこの火によって燃やされねばならない存在なのです。私たちは、先ほども言いましたようになるべく平和に生きていきたい。マイナスな感情や、状況を経験せずに生きていきたいと願います。
しかし、その中でひとたび苦難を味わわねばならなくなると、本当に心が揺さぶられ、怖れを抱きながら生きねばならなくなってしまいます。

理性的にそのことをとらえると、その原因は何なのか、非は私にあるのか、何を改善すればいいのかという知恵を働かします。けれども、本当に苦しい時、悲しい時、困難に突き当たるとき、ありとあらゆる理性的な観念が太刀打ちできなくなります。どんなに考えても分からない、何故私がこのような状況に、このような状態に追い込まれなければならないのかという思いが心を支配するのです。

「なぜ」という問いかけは、胸をえぐりだし、魂を傷つけるような問いを抑えることができないのです。そして、そのお一人お一人の「なぜ」という問いは、その人だけの「なぜ」でなく、人間の根源的な問いかけ、私たち自身の問いかけとなるのです。聖書にある盲目の人が、何故盲目なのか、この人に罪があったからか、それとも祖先に罪があった結果かという問いもそうです。
その問いに対してイエスは答えるのです。「神の御業が彼に現れるためである」と。ここにわたしたちの「なぜ」を解決する答えがあります。

魂の傷とは言ってみれば、良心の呵責や、神と和らがず平安のない私たちの心の奥底にある憎しみです。私がいけないのだ、こんなんだから罰を受けたのだという自分自身への憎しみ、そして、同時に、神がいるならば、私を救うというならばなぜこのような状況に私を置くのかと云う憎しみです。

そのような傷に対してイエスは言うのです。「あなたの罪は赦された」と。
そして、その究極の出来事が、イエスの十字架の出来事なのです。イエスが「地上に火を投ずるためである」と語ったのは、このことを明らかにするためでした。私たちは、信仰を持ちながらもちっとも平和な気持ちになれない、平和を実現することができないと嘆き、悲しみます。その中でもし、苦難を味わわねばならなければ、何故と思ってしまいます。そして、それは先ほども言いましたように、神への憎しみすら抱くのです。

私自身、怒りという感情を持たずに生きれば幸福に生きることができると思っていたけれど、なされなかった。信仰を持ったらあらゆる苦難に打ち勝つことができると思っていたのに、勝てない。
心の痛みが癒されると思っていたら、益々神を憎むことになってしまった。
これが人間の実存であり、姿です。だからこそ、私たちは「なぜ」と問うのです。

神は、その問いかけに沈黙しません。なぜならば、神は具体的に愛する御子イエスをこの世に遣わしてくださったと聖書が語っている通りです。そして、そのことを通して神ご自身が人間のあらゆる問いかけを経験したのです。
イエスご自身、あのゲッセマネの祈りの時、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈った。これは人間の真実の祈りです。私たち自身もやはりこのように祈るのです。
しかし、そこからイエスは、さらに祈りの言葉を続けます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
これは信仰が強いとか篤いという問題ではありません。

私はこのイエスの語る「火」に燃やされる、それは苦難か、困難か、痛みか、悲しみか分かりません。いずれにせよありとあらゆる姿をとって私たちに投じられるでしょう。しかし、私たちはそのことに恐れを抱く必要が無いのです。その答えはイエスご自身が示してくださったのです。
イエスご自身が、その人間として味わわねばならないありとあらゆる火を味わいつくしたのです。それは、迫害であり、苦難であり、悲しみであり、嘆きでありました。そして、その究極の姿として十字架の死でした。
死は私という存在の終わりをイメージします。しかし、イエスは、その十字架の死によって、始まりを示したのです。

「なぜ」と問う私たちにイエスは、その十字架と復活の姿によって、その「なぜ」という問いかけが癒され、すべての人がこの魂の傷から逃れを与えられ、目が開かれるようにと神の栄光を示したのです。
そして、この私たちの「なぜ」に対してただ十字架と復活の姿を示されるだけです。しかし、それで十分なのです。あなたの「なぜ」は、十字架にかけられ滅んだ。そして、復活によって、そのことから解放され、癒され本当に生きる者とされるという真実を物語ってくださったのです。

私たちは、理性的に「なぜ」を問い続けるならば、おそらくその答えは、出ないでしょう。解決されたと思ってもまた新しい魂の傷を抱えねばならなくなってしまうでしょう。
私たちは抱えねばならない「なぜ」は、必要な問いかけです。この問いかけが私たち一人一人の闇を映し出すからです。そして、その「なぜ」に対してイエスは、十字架によって、復活によって光を投じてくださった。まさに火を投じてくださったのです。それはこの世の考えや、理性からの分裂です。

それは信仰の目を開く火でした。 私たちは、時々感情的になり、時々自分本位になり、また時々理性的にもなります。しかし、さらにその上に信仰によってそれを受け取めることができることを知っています。それがイエスの祈りの姿、十字架の姿、復活の姿に示されています。この神の恵みと導き、ゆるしと愛を信じる道を進んでいければと願います。
私たちの小さな心で計り知れない神の業が、私たちが味わう「なぜ」の中に秘められています。その神の神秘、神の御業が私のうちに働いているのだということを思いながら歩んでまいりましょう。
その信仰的な目がいつ開かれるか分かりません。今か、明日か、既にか、それともこの世の肉体的な死に際してか。そのご計画は神のみぞ知るです。しかし、必ずそれが解決される神の道が示されています。

そして、この神の道をイエスご自身が歩んでくださり、私たちのありとあらゆる魂の傷を癒してくださいました。ですから、今週はこのことを胸に刻んで歩んでまいりましょう。私たち一人一人の抱える「なぜ」は、御ことばを通して、十字架をとおして、復活を通して回復されています。
主は私たちの「なぜ」という問いかけを見逃しません。そして、そのありとあらゆる「なぜ」という問いかけを、イエスの十字架と復活によって解決されています。このたった一つの出来事によってもたらされる大いなる神の恵みを心に抱きながら今週一週間歩んでまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって、わたしたちを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。


8月11日 召天者記念主日 礼拝説教

喜びの根源
主日の祈り
全能の神様。あなたは信じる者を主キリストのからだ、唯一の聖なる教会に結び合わされました。恵みを注いで、私たちを聖徒たちの信仰と献身の生涯に倣わせてください。あなたの民のために備えられた喜びで満たしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:エゼキエル書371-14節(旧)1357
1主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。2主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。3そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」4そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。6わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」7わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。8
わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。9主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」10わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。11主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。12それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

第二日課:ローマの信徒への手紙61-11節(新)280
1では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。2決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。7死んだ者は、罪から解放されています。8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。9そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

☆福音書:ヨハネによる福音書151-17 節(新)198
1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。 ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

【説教】
本日は、召天者記念主日という特別な主日を守っています。
この召天者主日とは、いわゆる日本文化におけるお盆とは、すこし意味合いが違います。わたしの個人的な理解ではありますが、お盆とは、いわゆる先祖供養にあたる儀式です。そのことを繰り返しながら、先祖のことを忘れないようにしているのだと思います。そして、その期間だけ、魂なのか、霊なのか分かりませんけれども、私たちのもとに戻ってきて楽しく過ごすという儀式であると思います。

しかし、キリスト教におけるこの召天者記念主日とは、先にも述べましたようにいわゆるお盆とは、違う意味があいがあるように思います。と、言いますのもこの日、私たちは先に召された方々が、迎え火によってこちらの世界とあちらの世界とを行き来するとは、考えていません。
キリスト教においてこの日を迎えるということは、改めて私たちこの世に生きる者と、先に召された方々が、共に礼拝に与り、今日は聖餐式をいたしませんけれども、同じ主の食卓に与っている、主の御ことばに生かされているということを覚える日なのです。

ですから、下関教会は、この建物の5階に納骨堂を備えていますが、聖壇の前の記念室にたくさんの先に召された方々のお写真を飾って、この扉を毎週の主日礼拝で解放し、日々共に信仰を神様によって養い続けられている群れとして歩んでいるのです。

もちろん、先に召された方々を思い起こしながら、様々な思い出を思い出し、その人自身がどのように生きたかということを覚える時でもありますから、日本のお盆に似た部分もありますが、この時、先に召された方々と、私たちの境界線は、取り除かれているのです。本日、与えられた福音は、そのような境界線を取り除いてくださった神の出来事が語られているという風に思います。

先日、厚狭教会で石居基夫牧師を神学校よりお招きして講演をいただく機会が与えられました。その中で、人間には、人間の生を支える三つの柱があるということを先生はお話し下さいました。
それは、小澤竹俊さんという方の本を参考にしながら、一つ目は時間の柱で、これは人間の生は過去から未来へと移ろいます。そして、その時間がいつ終わるか分からない。けれども、私たちは、一分一秒後も生きているだろう、明日も生きているだろうという時間というものにささえられながら生きる存在であると言います。
二つ目は、関係の柱です。これは家族や友人などその人を取り巻くあらゆる関係性の中で人間は生きる者であり、それが私たちの生を支えているし、様々な関係の中で私たち自身もほかの人々の生を支える役割を担っているのだと言います。
三つ目は自由の柱です。これは、石居先生は、自立と自律とおっしゃっていましたが、いわゆる私が私であるということを選び取りながら、決して生きていくということです。それが、私の生を支えると言います。

このように私たちを支える生の柱を小澤さんは3つあり、それが一つでも失われると、人間は絶望に苛まされるというのです。しかし、不思議とこの3つの柱は、それぞれどこかの部分が弱まれば、補い合うという不思議な柱であるとも言います。
例えば、もしも余命いくばくかと分かったとき、時間の柱は、弱められます。なぜならば、人間が過去から未来へ向かって生きていくものでありながら、その終わりが見えてしまったからです。もうそこまでしか生きられないという、明日も、明後日も、一か月先も生きているだろうという希望がうしなわれてしまうからです。

いずれにせよ、この3つの柱のバランスを損なうと、私たちの生は危ぶまれるというのが小澤さんの主張なわけです。
しかし、私たちキリスト者は、そうではありません。なぜならば、時間の柱は、イエスの十字架の死と復活によって、永遠のいのちが約束されているというみ救いの出来事を与えられているからです。
たしかに、肉体的には、滅びました。けれども、私たちは永遠のいのちを得、この世の生を終えてなお、御国において生き、そして、共にいつも礼拝に与っている、主の御ことばに生かされている、同じ生きる者とされているのです。

キリストの十字架と復活とは、死と時間を超える御救いの出来事であり、時間の柱というものがもしもあるとするならば、それは揺らぐことのない柱とされているのです。しかも、それは自分たちの力で得るものでもありません。
神がわたしたちのために働いてくださり、その永遠のいのちという希望を与えてくださるのです。

聖書に戻りましょう。イエスは、本日の福音においてこう語っています。
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」
ここでイエスは、ご自身をぶどうの木の幹ととらえ、私たちをその枝であると表現します。そして、主の御ことばに従い、主の喜びを感じていない者は、父が取り除かれると語るように、その永遠のいのちを顕して下った、そして、私たちに賜るそれを取り除くと語られています。

一読すると、父なる神は、厳しく私たちを断罪するものであるかのように聴こえます。しかし、そうではないのです。続く3節においてイエスはこう語ります。
「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」
つまり、私たちは、本質的に見るならば、神の目から見て、いつまでも罪ある者であり、イエスと言うぶどうの木につながっていられない枝なのです。しかし、イエスの出来事によって、み言葉によって清くされるのです。

繋がっていなければならないという私たちの側の出来事ではないということです。イエスが、私たち自身のために御ことばを語りかけるということは、その人間の本質を根本から覆すということです。
罪人であるはずの私たち一人一人の在り様を、み言葉の力によって変えてくださっているということです。それが「既に」なのです。

私たちは、おそらく生きている間、あらゆる憂いが襲い来るでしょう。3本の柱ということから考えるならば、いつ私は死ぬのか、いつこれまで築いてきた関係が失われるのか、いつ私は私としての生き方を選び取ることができなくなるのか。
それは、様々な形をとって、私のもとにやってきます。しかし、先に召された方々が、そして、主イエスご自身がわたしたちのために十字架に架かり、その罪と、死という絶対的な絶望に打ち勝ってくださったのです。

パウロは、ローマ人への手紙の中で、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中しにさらされ、/屠られる羊のように見られている。」と書いたあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)
と、かたります。

この証しは、真実の言葉です。私たち一人一人がキリストに連なる枝とされているということは、この神の愛の中にいるということなのです。そして、それはすべての事がらの憂いからの解放をもたらすのです。
その極みの出来事が、キリスト・イエスの十字架の出来事です。本日の第二日課でパウロが語っている通り、あの立った一度の贖いの出来事を仰ぎ見ることによって、そこにわたしたちの罪がイエスとともに磔にされ、イエスご自身が死ぬことによって購われたのです。そして、イエスの復活と言う出来事によって、新しい命、希望に生きる者とわたしたちはされています。

この何物にも勝る神の希望にキリスト者は生きているのです。ですから、本日覚えている先に召された方々と、私たちは同じ生きる者として、主の御前に今います。それは、今日に限ったことではなく、これからもずっと永遠に私たちのこの世での生活とともに御国の生活があるのです。

最後に、ある大先輩の牧師の言葉がそのことをよく表していると思いますので、ご紹介します。
「召天会員を含めて数えるから、教会員というものは決して減らないのだ」
この言葉が私たちの在り様の真実の姿です。このことを覚えながら、たしかに今会えないのはさびしく、悲しい事でありますけれども、同時に深い神の慰めを私たちは与えられているのです。








 [t1]何か私たち自身が実を結ばねばならないような文章だが、そうではない。主と繋がっていることの本当の意味を「しかし」という言葉に込められている。
私たちは、罪人でありながら、「しかし」実を結ぶものとされ、罪を赦された罪びとであるという『神の「しかし」』の中に生かされている存在である。


 [t2]先のみ言葉に続いて、このようなある意味で祝福が続く、私たちはみ言葉を聞くとき「既に清くなっている」のだ。つまり、それは神の御ことば、神の出来事すなわち、十字架によって清くされている。
そして、イエスは私につながっていなさいと勧めつつも、イエスご自身がわたしにつながってくださっているという真実を語っているのである。

8月4日 聖霊降臨後第11主日 礼拝説教

祈り
主日の祈り
常に僕の祈りに耳を傾けられる神様。私たちがみ旨に従って歩み、み霊の賜物を受けることができるように、私たちの心と思いをあなたへ向かわせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:創世記181633
18:16 その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。 17 主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。 18 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。 19 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」 20 主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 21 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」 22 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。 23 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。 24 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。 25 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」 26 主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」 27 アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。 28 もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」 29 アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」 30 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」 31 アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」 32 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」 33 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。

第二日課:コロサイの信徒への手紙2:6-15
2:6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。 7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。 8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。 9 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、 10 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。 11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。 15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。

福音書:ルカによる福音書11:1-13
11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、わたしたちにあるように。アーメン。

今日与えられている福音書のメッセージは、祈りについてです。
そして、今日読まれた福音書においては、私たちがいつも礼拝の中で必ず唱える「主の祈り」をイエスが私たちに教えてくださった場面です。
与えられた日課の最初にイエスが祈っておられると、ある弟子がイエスに尋ねます。「わたしたちにも祈りを教えてください」と申し出ます。

ある文献によると、ここでヨハネが弟子たちに教えたようにとあるように、当時ヨハネを慕うグループも、イエスを主と仰ぐグループもユダヤ教の一派と考えられていました。そして、そのユダヤ教のグループは、それぞれに固有の祈りを持っていたと言われています。ですから、イエスたちのグループもそのようなものを求め、自分たち固有のアイデンティティのようなものであったり、共同体としての祈りを神様に奉げていきたいという思いがあって、このような問いをイエスにしたのかもしれません。
祈るという事が、その共同体の結びつきを深め、そして、神様の御前に繰り返し、しかも新たに信仰を顕すという形で、共通の祈りが必要と思ったのかもしれません。

どんな意図があったにせよ、そのような弟子の求めに対して、イエスは、今日では「主の祈り」というものをわたしたちに示してくださいました。
このイエスが私たちに示してくださった祈りの言葉から本日は、共に神様の御声に耳を傾けてまいりたいと思います。

さて、私たちの祈りということを少し顧みてみましょう。
自分自身の祈りを思い起こしてみるならば、「~が守られますように」とか「~をしてください」という願いにあたるような言葉が一番多いような気がいたします。
しかし、思いますれば、これらの願いがすべて聞かれたかというならば、正直申しますならば、聴かれませんでした。
今は牧師と言う召しを与えられ、こうして下関教会で宣教の業に就いていますが、一昔前の私自身の一番の願いは、「どうか牧師だけはご勘弁を」という願いでした。
この願いは、聞き入れられず今こうしてみなさんの前に立って御ことばを執成しているわけです。

いずれにせよ、よくよく考えて見るならば、私たちが願った祈りという事がらにおいて、それがばっちり聞かれたという経験ももちろんたくさんいたしますけれども、圧倒的に聴かれなかった、むしろ、自分のそういう願いとは正反対のことが起こることの方が多いように気がします。
では、そのような中で「祈り」とは一体何なのかということです。

私は、この祈りということを考えている時にフッと思い起こしたことがあります。藤子・F・不二雄さんという漫画家を御存じであると思います。そして、その代表作は言わずもがな、ドラえもんです。そのドラえもんのオープニングの歌が頭の中に響いてきたのです。
少しその歌詞を申しますと、

こんなこといいな できたらいいな
あんなゆめ こんなゆめ いっぱいあるけど
みんなみんなみんな かなえてくれる
ふしぎなポッケで かなえてくれる

という歌詞です。わたしたちには、夢があります。こうありたいという理想があります。一人一人そのようなものを思いながら生きていると思うのです。私ももう少し身長がほしいとか、痩せて健康な体を持ちたい、もっともっとこの下関教会の会員が増えればな、ティーンズの中から導かれて受洗をする子が与えられないだろうかとか、それは様々です。
ドラえもんの場合は、のび太くんの願いをドラえもんが、ポケットから未来の道具を出して、その願いがなるべく叶うようにしてくれるというのが物語の大枠です。

何故このような話をしたかと言うと、私たちもまさにドラえもんを求めているのではないでしょうか。
不思議なポケットから未来の道具を出して、のび太の願いをかなえてくれるドラえもんのような神様です。たしかに、今日の聖書には、求めなさいとイエスご自身語っています。
けれども、私たちは、この「求める」という事がらのとらえ方をしばしば誤ってしまっているのです。

つまり、この求めなさいという言葉を聞くと、自分自身のほしいものを求めていいのだと思います。けれども、そこに深い人間の罪があるのです。それは、自己中心という罪です。
もしも、ドラえもんのような神様を求めて、祈るならば、はっきり言って段々と信仰は失われていくでしょう。
なぜならば、先ほども申しましたように、祈り願ったものの多くはあたかも聞かれていないかのように見えるからです。

けれども、そこにわたしたちを不信仰へと導く落とし穴があるのです。
聖書に戻って、今一度祈りという事を紐解いていくならばイエスは、私たちに何を語っているでしょうか。
それは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」ということです。つまり、イエスが求めなさいという時、それは私たちの自己中心の思いではなく、神の思いを、神の国が実現するように、つまり、神の御救いの出来事が実現するようにと祈るのです。

ここで祈るのは、私たちの思いではないという事です。
よくよく注意深く「主の祈り」をみて見ますと、文語での方が私自身慣れ親しんでいますから、そこから見ていきたいと思っていますが、まず「願わくは御名をあがめさせたまえ」です。
つまり、神の御名があがめられるようにという願いです。この世に生きる人々が、神を神として信仰するようにと祈るのです。

つづいて、「御国を来たらせたまえ」です。この祈りは、神の国がなるようにということです。私たちの国が堅く据えられるようにということではないのです。神の支配、神の守りが私たちのもとに訪れるようにといのっているのです。
そして、「み心の天に成る如く地にもなさせたまえ」です。まさにここで私たちの祈りの本質が示されます。
つまり、私たちの現実になることがらは、私たちの側から出る思いではなく、神の側からでる思い、御心が、み旨が成るように、この地上でも実現しますようにと祈るのです。

このように祈りの本質とは神様の御前に自分の思いではなく、神様の思いがなるようにと願うのです。
ですから、私たちが人々の平和を願うこと、人間関係の和を願う事、健康を願う事の根本には、この思いがながれているのです。決して、自分の思いではなく、神の思いが実現する中で、あらゆる良いことがなっていくようにと、わたしの思いではなくあなたによってなされていくようにと願っていくのです。

今日は、聖霊降臨後第11主日という礼拝を守っていると同時に、平和主日という主日も守っております。
その中で唱えられるアッシジのフランシスコの平和の祈りもまさにこの神の平和が成るようにと言う切なる祈りです。この主よ、私たちを平和の使者として送り出し、
憎しみのあるところに愛を、
争いのあるところに赦しを
分裂のあるところに一致を
疑いのあるところに信仰を
絶望のあるところに希望を
闇のあるところに光を
哀しみのあるところに喜びを伝える者にしてください。
というこの祈りには、自分の思いはありません。すべてイエス・キリストがこの世で実現してくださった神の義であり、神の国の姿です。このことが成るとき、本当に平和な世界が実現するということをフランシスコ自身深く悟っていたのです。

そして、最もこの福音において大切なことは、この祈りが「わたしの祈り」ではないということです。始めに少し触れましたが、この祈りは弟子の一人が共同体としての一致した祈りをイエスに求めたことから、イエスが私たちに示された祈りです。つまり、これは「わたしたちの祈り」なのです。私たちは、この「主の祈り」を唱える時、この祈りの言葉が、私たちの一致した思いであるということを覚え、心を合わせて祈るのです。

そして、それがわたしの思いではなく、神の事がらが実現していくようにという祈りです。
そして、この祈りが私たちの祈りであるということが、本当に知らされた時、献金のあとに祈られる祈りや、日々お一人お一人が祈る祈りが、その人の祈りから、私たちの祈りとなるということが明らかにされます。
そうして、私たちの共同体の絆は、強められ、深められていくのです。
だからこそ、アッシジのフランシスコという一人の人が祈った祈りが、私たちキリスト者全員の祈りとなり、何百年も大切にされ、祈られてきたのです。

祈りとは、何か。
それは、神の御心がこの世に実現するようにという信仰によってなされるものです。
このことが失われた時、それは祈りではなくなります。
祈りとは、私たちの信仰生活を支える大切なことであります。そして、私たちのこの共同体の絆をますます深め、強くするものです。
祈りには、神のみ力が働いていて、神の事がらが実現していく真実があります。どうしても私たちは、そのことを忘れてしまうことがあります。しかし、聖書は語ります。
「天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ711節)という言葉が伝えられています。
自分が思うものとは違っても、結局一番「良い物」が与えられているのです。このことに信じて、委ねてまいりたいと本当に心から思います。自分の思いとは、違うかもしれない、けれども、それが本当に私にとって、私たちにとって神が与えたもうもっともよい者であるということを、まさに子供のように素直な心で受け止めていきたいと思うのです。

時に私たちは祈るということが困難になったり、意味があるのかと問いたくなることもあります。けれども、本日の福音が示しているように祈りには力がある、そして、それは神の私たちに対する溢れんばかりの聖霊の恵みによるものであるという今日の最後のイエスの御ことばを信じて歩んでまりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって、わたしたちを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。