2013年9月14日土曜日

8月4日 聖霊降臨後第11主日 礼拝説教

祈り
主日の祈り
常に僕の祈りに耳を傾けられる神様。私たちがみ旨に従って歩み、み霊の賜物を受けることができるように、私たちの心と思いをあなたへ向かわせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:創世記181633
18:16 その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。 17 主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。 18 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。 19 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」 20 主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 21 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」 22 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。 23 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。 24 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。 25 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」 26 主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」 27 アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。 28 もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」 29 アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」 30 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」 31 アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」 32 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」 33 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。

第二日課:コロサイの信徒への手紙2:6-15
2:6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。 7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。 8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。 9 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、 10 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。 11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。 15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。

福音書:ルカによる福音書11:1-13
11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、わたしたちにあるように。アーメン。

今日与えられている福音書のメッセージは、祈りについてです。
そして、今日読まれた福音書においては、私たちがいつも礼拝の中で必ず唱える「主の祈り」をイエスが私たちに教えてくださった場面です。
与えられた日課の最初にイエスが祈っておられると、ある弟子がイエスに尋ねます。「わたしたちにも祈りを教えてください」と申し出ます。

ある文献によると、ここでヨハネが弟子たちに教えたようにとあるように、当時ヨハネを慕うグループも、イエスを主と仰ぐグループもユダヤ教の一派と考えられていました。そして、そのユダヤ教のグループは、それぞれに固有の祈りを持っていたと言われています。ですから、イエスたちのグループもそのようなものを求め、自分たち固有のアイデンティティのようなものであったり、共同体としての祈りを神様に奉げていきたいという思いがあって、このような問いをイエスにしたのかもしれません。
祈るという事が、その共同体の結びつきを深め、そして、神様の御前に繰り返し、しかも新たに信仰を顕すという形で、共通の祈りが必要と思ったのかもしれません。

どんな意図があったにせよ、そのような弟子の求めに対して、イエスは、今日では「主の祈り」というものをわたしたちに示してくださいました。
このイエスが私たちに示してくださった祈りの言葉から本日は、共に神様の御声に耳を傾けてまいりたいと思います。

さて、私たちの祈りということを少し顧みてみましょう。
自分自身の祈りを思い起こしてみるならば、「~が守られますように」とか「~をしてください」という願いにあたるような言葉が一番多いような気がいたします。
しかし、思いますれば、これらの願いがすべて聞かれたかというならば、正直申しますならば、聴かれませんでした。
今は牧師と言う召しを与えられ、こうして下関教会で宣教の業に就いていますが、一昔前の私自身の一番の願いは、「どうか牧師だけはご勘弁を」という願いでした。
この願いは、聞き入れられず今こうしてみなさんの前に立って御ことばを執成しているわけです。

いずれにせよ、よくよく考えて見るならば、私たちが願った祈りという事がらにおいて、それがばっちり聞かれたという経験ももちろんたくさんいたしますけれども、圧倒的に聴かれなかった、むしろ、自分のそういう願いとは正反対のことが起こることの方が多いように気がします。
では、そのような中で「祈り」とは一体何なのかということです。

私は、この祈りということを考えている時にフッと思い起こしたことがあります。藤子・F・不二雄さんという漫画家を御存じであると思います。そして、その代表作は言わずもがな、ドラえもんです。そのドラえもんのオープニングの歌が頭の中に響いてきたのです。
少しその歌詞を申しますと、

こんなこといいな できたらいいな
あんなゆめ こんなゆめ いっぱいあるけど
みんなみんなみんな かなえてくれる
ふしぎなポッケで かなえてくれる

という歌詞です。わたしたちには、夢があります。こうありたいという理想があります。一人一人そのようなものを思いながら生きていると思うのです。私ももう少し身長がほしいとか、痩せて健康な体を持ちたい、もっともっとこの下関教会の会員が増えればな、ティーンズの中から導かれて受洗をする子が与えられないだろうかとか、それは様々です。
ドラえもんの場合は、のび太くんの願いをドラえもんが、ポケットから未来の道具を出して、その願いがなるべく叶うようにしてくれるというのが物語の大枠です。

何故このような話をしたかと言うと、私たちもまさにドラえもんを求めているのではないでしょうか。
不思議なポケットから未来の道具を出して、のび太の願いをかなえてくれるドラえもんのような神様です。たしかに、今日の聖書には、求めなさいとイエスご自身語っています。
けれども、私たちは、この「求める」という事がらのとらえ方をしばしば誤ってしまっているのです。

つまり、この求めなさいという言葉を聞くと、自分自身のほしいものを求めていいのだと思います。けれども、そこに深い人間の罪があるのです。それは、自己中心という罪です。
もしも、ドラえもんのような神様を求めて、祈るならば、はっきり言って段々と信仰は失われていくでしょう。
なぜならば、先ほども申しましたように、祈り願ったものの多くはあたかも聞かれていないかのように見えるからです。

けれども、そこにわたしたちを不信仰へと導く落とし穴があるのです。
聖書に戻って、今一度祈りという事を紐解いていくならばイエスは、私たちに何を語っているでしょうか。
それは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」ということです。つまり、イエスが求めなさいという時、それは私たちの自己中心の思いではなく、神の思いを、神の国が実現するように、つまり、神の御救いの出来事が実現するようにと祈るのです。

ここで祈るのは、私たちの思いではないという事です。
よくよく注意深く「主の祈り」をみて見ますと、文語での方が私自身慣れ親しんでいますから、そこから見ていきたいと思っていますが、まず「願わくは御名をあがめさせたまえ」です。
つまり、神の御名があがめられるようにという願いです。この世に生きる人々が、神を神として信仰するようにと祈るのです。

つづいて、「御国を来たらせたまえ」です。この祈りは、神の国がなるようにということです。私たちの国が堅く据えられるようにということではないのです。神の支配、神の守りが私たちのもとに訪れるようにといのっているのです。
そして、「み心の天に成る如く地にもなさせたまえ」です。まさにここで私たちの祈りの本質が示されます。
つまり、私たちの現実になることがらは、私たちの側から出る思いではなく、神の側からでる思い、御心が、み旨が成るように、この地上でも実現しますようにと祈るのです。

このように祈りの本質とは神様の御前に自分の思いではなく、神様の思いがなるようにと願うのです。
ですから、私たちが人々の平和を願うこと、人間関係の和を願う事、健康を願う事の根本には、この思いがながれているのです。決して、自分の思いではなく、神の思いが実現する中で、あらゆる良いことがなっていくようにと、わたしの思いではなくあなたによってなされていくようにと願っていくのです。

今日は、聖霊降臨後第11主日という礼拝を守っていると同時に、平和主日という主日も守っております。
その中で唱えられるアッシジのフランシスコの平和の祈りもまさにこの神の平和が成るようにと言う切なる祈りです。この主よ、私たちを平和の使者として送り出し、
憎しみのあるところに愛を、
争いのあるところに赦しを
分裂のあるところに一致を
疑いのあるところに信仰を
絶望のあるところに希望を
闇のあるところに光を
哀しみのあるところに喜びを伝える者にしてください。
というこの祈りには、自分の思いはありません。すべてイエス・キリストがこの世で実現してくださった神の義であり、神の国の姿です。このことが成るとき、本当に平和な世界が実現するということをフランシスコ自身深く悟っていたのです。

そして、最もこの福音において大切なことは、この祈りが「わたしの祈り」ではないということです。始めに少し触れましたが、この祈りは弟子の一人が共同体としての一致した祈りをイエスに求めたことから、イエスが私たちに示された祈りです。つまり、これは「わたしたちの祈り」なのです。私たちは、この「主の祈り」を唱える時、この祈りの言葉が、私たちの一致した思いであるということを覚え、心を合わせて祈るのです。

そして、それがわたしの思いではなく、神の事がらが実現していくようにという祈りです。
そして、この祈りが私たちの祈りであるということが、本当に知らされた時、献金のあとに祈られる祈りや、日々お一人お一人が祈る祈りが、その人の祈りから、私たちの祈りとなるということが明らかにされます。
そうして、私たちの共同体の絆は、強められ、深められていくのです。
だからこそ、アッシジのフランシスコという一人の人が祈った祈りが、私たちキリスト者全員の祈りとなり、何百年も大切にされ、祈られてきたのです。

祈りとは、何か。
それは、神の御心がこの世に実現するようにという信仰によってなされるものです。
このことが失われた時、それは祈りではなくなります。
祈りとは、私たちの信仰生活を支える大切なことであります。そして、私たちのこの共同体の絆をますます深め、強くするものです。
祈りには、神のみ力が働いていて、神の事がらが実現していく真実があります。どうしても私たちは、そのことを忘れてしまうことがあります。しかし、聖書は語ります。
「天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ711節)という言葉が伝えられています。
自分が思うものとは違っても、結局一番「良い物」が与えられているのです。このことに信じて、委ねてまいりたいと本当に心から思います。自分の思いとは、違うかもしれない、けれども、それが本当に私にとって、私たちにとって神が与えたもうもっともよい者であるということを、まさに子供のように素直な心で受け止めていきたいと思うのです。

時に私たちは祈るということが困難になったり、意味があるのかと問いたくなることもあります。けれども、本日の福音が示しているように祈りには力がある、そして、それは神の私たちに対する溢れんばかりの聖霊の恵みによるものであるという今日の最後のイエスの御ことばを信じて歩んでまりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって、わたしたちを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿