2013年9月18日水曜日

9月1日 聖霊降臨後第15主日 礼拝説教

お返しのできない恵み

主日の祈り
永遠・全能の神様。あなたはキリストによって、すべての民に栄光を顕されました。み霊を注いで、み名を告白する堅固な信仰に、全世界の教会を立たせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。
本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書922-23節(旧)1194
9:22 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。 23 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

第二日課:ヘブライ人への手紙131-8節(新)418
13:1 兄弟としていつも愛し合いなさい。 2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。 3 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。 4 結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。 5 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。 6 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」 7 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。 8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

☆福音書:ルカによる福音書147-14 節(新)136
14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。 8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


今日の福音書の日課は、ファリサイ派の人々との食事の席で語られたイエスの福音です。今日の福音を一見するとイエスは、そこに居た人々に、食事に招かれたときに恥をかかないためのテーブルマナーを語っているかのように見えますが、そうではありません。
本日与えられた福音の主題は、神の救いの出来事において必要なことは何かということを教えてくださっているのです。

私たちは、「もっと」ということを求める生き方をしているのではないでしょうか。
もっと便利にという思いが、様々なことの革命や、革新を生んできました。移動手段一つをとっても、昔は徒歩で行っていた道のりを、馬を扱ったり、自転車を開発していきました。そして、それがやがてモーターという物を発明してバイクや、自動車という物を発明していきました。
また、手紙もそうです。始めは人力で運んでいたのが、時代を経るにつれて、手紙は手書きではなくパソコンで、相手に届ける方法は、何日も欠けるのではなく、インターネットで一瞬にして地球の裏側に居る人に届くようになりました。
もっとという人々の思いがそういった進歩を生んだのです。

しかし、同時にこのことによって、人間はあたかも自分たちは、何でもできるという思いを抱かせます。パソコン一つとっても決してそれは私の仕事ではなく、パソコンの機能が素晴らしくてできているのに、それを自由自在に操って、色々なものを創出し、あたかも自分が成したかのように、自分の功績のように錯覚してしまいます。
私自身も仕事のかなりの事がらをパソコンに頼っていますが、時折そういう思いに捕らわれます。けれども、よくよく考えて見るならば、それは確かに人間が作り出したものではありますが、決して人間の業ではなく、機械の業です。
それをあたかも私の業かのように錯覚してしまうのです。これは注意しなければなりません。

恐れずに言うならば、この思いはあたかも自分が神にでもなったかのように思わせるからです。何でもできる。文章を作成することはもちろん。インターネットで買い物も、知識も得ることができる。これさえあれば、私は何でもできると思い込んでしまうのです。そして、それが色々とニュースになっているようにネットのいじめや、誰かの書いたことに対する誹謗中傷、批判による炎上という行為にいたるのです。
この画面を通して、他人を裁き、自分が正しい存在であると錯覚させ、傲慢な思いにさせるのです。

何も今日の説教で私はパソコン批判をしているのではありません。私たちは、パソコンの事に限らずともいつでも傲慢に陥る危うさをはらんでいるということを述べたいのです。
今日の第一日課で読まれたエレミヤ書に記されているエレミヤに臨んだ神の御ことばを見てまいりましょう。
神はハッキリとエレミヤに告げます。「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな」
ここに列挙されている事がらを人間が得た時起こりうることは、まさに誇ることです。そして、それが行き過ぎて驕り高ぶるという事態を招きます。

私はほかの人よりも知恵があるから、馬鹿はしない。そんなことをするなんてあいつはなんて愚かなのだと他人を裁く結果を生みます。力ある者、それは権力かもしれません。それを得たことによって自分は何か素晴らし者、他者とは違う存在になったかのように錯覚し、やはりここでも他者を裁いたり、自分自身傲慢になる恐れがあります。
富においても、確かに私たちはもっとお金があればと願います。しかし、それを得て傲慢になり、鼻持ちならない人をたくさん見てきました。

この神の御ことばは、そういう人間の真実の姿をあぶりだす御ことばなのです。私たちは、そういったものを得た時、誇ろうとしてしまう。何か自分が神にでもなったかのように振る舞ってしまう。本当は、そうではなくそれを得た背後にある方の姿を見なくなってしまうのです。

そして、それは神によって導き出されたイスラエルの人々自身そうでありました。
十戒の最初の文章を皆さんは覚えているでしょうか。十戒を唱える時、まずその最初にある文章は、「わたしはあなたがたの神であって、あなたがたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という文章です。
これは何もイスラエルの人々だけに語られている御ことばではありません。聖書を通して私たち一人一人に語りかけられている神の御ことばです。

私たちはこのことを真剣にとらえる必要があるのではないでしょうか。このことから浮き彫りにされるのは、私たちは捕らわれ人であったということです。それは具体的に誰かの奴隷とされていたということだけでなく、何かの奴隷状態にあったということです。
それは、今日の第一日課で語られているように、知恵、力、富様々な姿を取って私たちを捕らえて離さなくするのです。それらのことにわたしたち自身も固執し、それによっておごり高ぶってしまうのです。
このことをルターはハッキリと悪魔に捕らわれていると言い切ります。私が得た物をわたしが得たと思い込んだとき、それは悪魔になってしまう。私たちを誘惑し、傲慢へと陥らせるものになってしまうのです。
本当は、私たちを支え、導いてくださり、必要を与えてくださっているのは、神ご自身であるのに、そのことの目をくらませてしまうのです。

しかし、今日の御ことばは、そうではないということを語っています。
第一日課の23節に神は私たちに「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」と告げています。
「この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事」と書かれているところは、一人称です。つまり、私たちに起こりうる、与えられるすべての事がらが神の御業の中にあるということを示しているのです。
私たちは今日このことをしっかりと私たちの心に、信仰に刻む必要があるのです。

そして、そのことにおいてどういう神の御業が働くかを福音においてもイエスは、私たちに今一度伝えています。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」という御ことばがそれです。
ここで「低くされる」というのは、「謙る」という言葉と同じ言葉です。私たちはどうしてもおごり高ぶりに陥る、けれどもそうなってしまった人間をあらためて神は、謙る者としてくださるのです。そして、謙る者を「高められる」のです。
そして、この「高める」というのは、天国という言葉の動詞形です。それは神の御前に謙る者は、神の国に上げられるということ、つまり、救いの御業に与るということを示しているのです。

さらに言うならば、ここで語られている御ことばは、すべて受動態という形で記されています。
つまり、それは私が謙ったから救いに与るという能動的な、私の業ではなく、神の業が私に働くということです。
私たちは、神によってそういう者とされ、神の御救いの業を受ける者とされるのです。
神の御救いの御業において、私という人間が介入する余地はないということをイエスはハッキリと私たちに示したのです。

そして、そのことを示されたイエスはさらに私たちに「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」と語りかけます。
この福音を知らされ思い出す讃美歌があります。それは讃美歌の536番です。
歌詞は「むくいをのぞまで ひとにあたえよ、 こは主のかしこき みむねならずや 水の上(え)に落ちて、 ながれしたねも、 いずこのきしにか 生いたつものを」という歌詞です。
私たちは、普通であれば何か見返りを求めてしまいます。けれども、そうではない、神がわたしを導き、救ってくださっているのだから、もうそのような物を求めなくてよいということです。

むしろ、神に委ねて生きるということを神は告げているのです。報いを望まずに与えることは、神の御旨である。水の上に落ちて流れいく種もどこかの岸につき生い茂るという536番の歌詞にあるように、私たちは神の御旨に生きる時、小さな、小さな種が生い茂り、木となり、実を生らすように、私たち自身も神の御業に委ねる時、神の御業を示す者とならしめるのです。

水の上に落ちる時、それは不安を覚えるかもしれません。流れるほどの水ですからそれなりに水の量もあります。蛇行したり、急流になったり、時には滝のようなものが待ち受けまっさかさまに下に落ちることもあるかもしれません。けれども、神はそのような種を生かしてくださる。神の業を成すものとしてくださるのです。
この大いなる神の業に私たちは生かされています。ですから、何かを誇るのではなく私たちは、ただただ神の御業に頼り、神ご自身がわたしに働いてくださるという恵みを誇りましょう。私の何かを誇る必要はない自由な生き方を私たちは示されています。

何事も誇ることのない生への招きを与えられ、そして、人の目には惨めで、小さい者に神の御業が働いています。誇ることがないことに恐れる必要はありません。神があなたがた一人一人に働き、み救いへと導き、本当は何事にもとらわれない自由な者へとしてくださっているのです。
この神から与えられる本当の自由の中に生きる喜びを抱きながら今週一週間も歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

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