2013年9月14日土曜日

8月11日 召天者記念主日 礼拝説教

喜びの根源
主日の祈り
全能の神様。あなたは信じる者を主キリストのからだ、唯一の聖なる教会に結び合わされました。恵みを注いで、私たちを聖徒たちの信仰と献身の生涯に倣わせてください。あなたの民のために備えられた喜びで満たしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:エゼキエル書371-14節(旧)1357
1主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。2主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。3そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」4そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。6わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」7わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。8
わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。9主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」10わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。11主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。12それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

第二日課:ローマの信徒への手紙61-11節(新)280
1では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。2決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。7死んだ者は、罪から解放されています。8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。9そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

☆福音書:ヨハネによる福音書151-17 節(新)198
1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。 ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

【説教】
本日は、召天者記念主日という特別な主日を守っています。
この召天者主日とは、いわゆる日本文化におけるお盆とは、すこし意味合いが違います。わたしの個人的な理解ではありますが、お盆とは、いわゆる先祖供養にあたる儀式です。そのことを繰り返しながら、先祖のことを忘れないようにしているのだと思います。そして、その期間だけ、魂なのか、霊なのか分かりませんけれども、私たちのもとに戻ってきて楽しく過ごすという儀式であると思います。

しかし、キリスト教におけるこの召天者記念主日とは、先にも述べましたようにいわゆるお盆とは、違う意味があいがあるように思います。と、言いますのもこの日、私たちは先に召された方々が、迎え火によってこちらの世界とあちらの世界とを行き来するとは、考えていません。
キリスト教においてこの日を迎えるということは、改めて私たちこの世に生きる者と、先に召された方々が、共に礼拝に与り、今日は聖餐式をいたしませんけれども、同じ主の食卓に与っている、主の御ことばに生かされているということを覚える日なのです。

ですから、下関教会は、この建物の5階に納骨堂を備えていますが、聖壇の前の記念室にたくさんの先に召された方々のお写真を飾って、この扉を毎週の主日礼拝で解放し、日々共に信仰を神様によって養い続けられている群れとして歩んでいるのです。

もちろん、先に召された方々を思い起こしながら、様々な思い出を思い出し、その人自身がどのように生きたかということを覚える時でもありますから、日本のお盆に似た部分もありますが、この時、先に召された方々と、私たちの境界線は、取り除かれているのです。本日、与えられた福音は、そのような境界線を取り除いてくださった神の出来事が語られているという風に思います。

先日、厚狭教会で石居基夫牧師を神学校よりお招きして講演をいただく機会が与えられました。その中で、人間には、人間の生を支える三つの柱があるということを先生はお話し下さいました。
それは、小澤竹俊さんという方の本を参考にしながら、一つ目は時間の柱で、これは人間の生は過去から未来へと移ろいます。そして、その時間がいつ終わるか分からない。けれども、私たちは、一分一秒後も生きているだろう、明日も生きているだろうという時間というものにささえられながら生きる存在であると言います。
二つ目は、関係の柱です。これは家族や友人などその人を取り巻くあらゆる関係性の中で人間は生きる者であり、それが私たちの生を支えているし、様々な関係の中で私たち自身もほかの人々の生を支える役割を担っているのだと言います。
三つ目は自由の柱です。これは、石居先生は、自立と自律とおっしゃっていましたが、いわゆる私が私であるということを選び取りながら、決して生きていくということです。それが、私の生を支えると言います。

このように私たちを支える生の柱を小澤さんは3つあり、それが一つでも失われると、人間は絶望に苛まされるというのです。しかし、不思議とこの3つの柱は、それぞれどこかの部分が弱まれば、補い合うという不思議な柱であるとも言います。
例えば、もしも余命いくばくかと分かったとき、時間の柱は、弱められます。なぜならば、人間が過去から未来へ向かって生きていくものでありながら、その終わりが見えてしまったからです。もうそこまでしか生きられないという、明日も、明後日も、一か月先も生きているだろうという希望がうしなわれてしまうからです。

いずれにせよ、この3つの柱のバランスを損なうと、私たちの生は危ぶまれるというのが小澤さんの主張なわけです。
しかし、私たちキリスト者は、そうではありません。なぜならば、時間の柱は、イエスの十字架の死と復活によって、永遠のいのちが約束されているというみ救いの出来事を与えられているからです。
たしかに、肉体的には、滅びました。けれども、私たちは永遠のいのちを得、この世の生を終えてなお、御国において生き、そして、共にいつも礼拝に与っている、主の御ことばに生かされている、同じ生きる者とされているのです。

キリストの十字架と復活とは、死と時間を超える御救いの出来事であり、時間の柱というものがもしもあるとするならば、それは揺らぐことのない柱とされているのです。しかも、それは自分たちの力で得るものでもありません。
神がわたしたちのために働いてくださり、その永遠のいのちという希望を与えてくださるのです。

聖書に戻りましょう。イエスは、本日の福音においてこう語っています。
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」
ここでイエスは、ご自身をぶどうの木の幹ととらえ、私たちをその枝であると表現します。そして、主の御ことばに従い、主の喜びを感じていない者は、父が取り除かれると語るように、その永遠のいのちを顕して下った、そして、私たちに賜るそれを取り除くと語られています。

一読すると、父なる神は、厳しく私たちを断罪するものであるかのように聴こえます。しかし、そうではないのです。続く3節においてイエスはこう語ります。
「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」
つまり、私たちは、本質的に見るならば、神の目から見て、いつまでも罪ある者であり、イエスと言うぶどうの木につながっていられない枝なのです。しかし、イエスの出来事によって、み言葉によって清くされるのです。

繋がっていなければならないという私たちの側の出来事ではないということです。イエスが、私たち自身のために御ことばを語りかけるということは、その人間の本質を根本から覆すということです。
罪人であるはずの私たち一人一人の在り様を、み言葉の力によって変えてくださっているということです。それが「既に」なのです。

私たちは、おそらく生きている間、あらゆる憂いが襲い来るでしょう。3本の柱ということから考えるならば、いつ私は死ぬのか、いつこれまで築いてきた関係が失われるのか、いつ私は私としての生き方を選び取ることができなくなるのか。
それは、様々な形をとって、私のもとにやってきます。しかし、先に召された方々が、そして、主イエスご自身がわたしたちのために十字架に架かり、その罪と、死という絶対的な絶望に打ち勝ってくださったのです。

パウロは、ローマ人への手紙の中で、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中しにさらされ、/屠られる羊のように見られている。」と書いたあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)
と、かたります。

この証しは、真実の言葉です。私たち一人一人がキリストに連なる枝とされているということは、この神の愛の中にいるということなのです。そして、それはすべての事がらの憂いからの解放をもたらすのです。
その極みの出来事が、キリスト・イエスの十字架の出来事です。本日の第二日課でパウロが語っている通り、あの立った一度の贖いの出来事を仰ぎ見ることによって、そこにわたしたちの罪がイエスとともに磔にされ、イエスご自身が死ぬことによって購われたのです。そして、イエスの復活と言う出来事によって、新しい命、希望に生きる者とわたしたちはされています。

この何物にも勝る神の希望にキリスト者は生きているのです。ですから、本日覚えている先に召された方々と、私たちは同じ生きる者として、主の御前に今います。それは、今日に限ったことではなく、これからもずっと永遠に私たちのこの世での生活とともに御国の生活があるのです。

最後に、ある大先輩の牧師の言葉がそのことをよく表していると思いますので、ご紹介します。
「召天会員を含めて数えるから、教会員というものは決して減らないのだ」
この言葉が私たちの在り様の真実の姿です。このことを覚えながら、たしかに今会えないのはさびしく、悲しい事でありますけれども、同時に深い神の慰めを私たちは与えられているのです。








 [t1]何か私たち自身が実を結ばねばならないような文章だが、そうではない。主と繋がっていることの本当の意味を「しかし」という言葉に込められている。
私たちは、罪人でありながら、「しかし」実を結ぶものとされ、罪を赦された罪びとであるという『神の「しかし」』の中に生かされている存在である。


 [t2]先のみ言葉に続いて、このようなある意味で祝福が続く、私たちはみ言葉を聞くとき「既に清くなっている」のだ。つまり、それは神の御ことば、神の出来事すなわち、十字架によって清くされている。
そして、イエスは私につながっていなさいと勧めつつも、イエスご自身がわたしにつながってくださっているという真実を語っているのである。

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