2013年9月18日水曜日

8月25日 聖霊降臨後第14主日 礼拝説教

狭い戸口

主日の祈り
主よ。あなたの民が切にみ助けを求め、救いの恵みを喜ぶことができるように、その心を奮い立たせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書6618-23節(旧)1171
66:18 わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。 19 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。 20 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。 21 わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。 22 わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。 23 新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと/主は言われる。

第二日課:ヘブライ人への手紙1218-29節(新)418
12:1819 あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。 20 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。 21 また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。 22 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、 23 天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 24 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。 25 あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。 26 あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」 27 この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。 28 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。 29 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

☆福音書:ルカによる福音書1322-30 節(新)135
13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日の福音書の箇所は、私たちキリスト者にとって実に素朴で単純な神への問いかけの言葉ではないでしょうか。
私たちは、この世で生きる限り様々な辛苦ということを味わい、その中で呻きながら生きています。ですから、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という問いかけは、私たち一人一人の神への問いかけとなっていくことは自明のことです。神は、すべての人を救ってくださると語りかけてくださっているのにもかかわらず、やはり私たちは、救われる人がどれほどいるのかということが気になってしまう存在です。

そして、そのような問いかけの中でいつの間にか楽観的になっていないでしょうか。なぜならば、神は、私たち一人一人を愛し、すべての人を救ってくださっているから大丈夫だ。ましてや、私は洗礼を受けて、キリスト者として歩んでいるのだからなおさら大丈夫に違いないと思ってしまうのです。

始めに今日の福音の主題を述べてしまうならば、救いの出来事は、神の側にあるということです。
私たちは、つい神の救いに与るためには、何か資格が必要で、それをクリアすることによって救われるというふうに考えてしまいます。ともすれば、洗礼もその手段、方法論のように考えてしまいます。

今日の福音に登場する質問者もまたそのように考えていたのです。当時、イスラエルの人々の考え方は、私たちこそ救いに与るにふさわしいという考え方でした。それが先鋭化していた集団がファリサイ派であり、律法学者、祭司という人々でした。私たちこそ、この世界で救われるべき存在であるという、ある種の選民意識があったのです。
だからこそ、人々はもしかしたら自分はこの神の救いの名簿から漏れているかもしれないという不安を抱えて生きねばならなかったかもしれません。

そして、それがいつの間にかこれをすれば神の救いに与ることができるという考え方がはびこり、救いが人間の側の行いや、言動、人となりに左右されるようになってしまっていたのです。
そのようになってしまうとき私たちの間に生まれるのは、裁くということです。あの人は、これをしていないから駄目だ、私は一生懸命奉仕しているから救われるはずだという意識です。
聖書は、そのような人間の姿をファリサイ派や祭司たちの姿を通して明らかにしています。

しかし、本日の福音において語られている「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの御ことばは、そのような人間の在り方に否を唱えているのです。
狭い戸口ということは、私たちが望んでいるような豪華で、きらびやかな戸口ではないということです。私たちは天国に入る戸口は、どういう姿かと想像する時、おそらくそういう姿の戸口を想像するでしょう。そして、その戸口を通って神の御許につきたいと願います。

ここにも神と私たち人間の思いとの間にかみ合わない点があるのです。救いという素晴らしい出来事は、実は非常に私たちにとって困難さを伴うのだということを思わされます。つまり、私たちは、この狭い戸口を見つける旅をこの世において続けているということです。

そして、このことの真理が25節に記されています。それは「ご主人様、開けてください」というたとえの中に出てくる言葉です。ここで「ご主人様」と語られていると、何かそこに主従関係のような関係性があるように思いますが、ギリシャ語に遡って観るならば、これはそういう主従関係ではありません。

ただ単純に、ある家の主人に戸をあけてくれという願いです。つまり、その家の主人に対する別の家の人が戸を叩くいわゆる呼びかけです。つまり、この箇所で登場する主人とは、文字通り「家の主人」のことであり、この家の戸を開けるかどうかということは、その主従関係においてどのような関係性であったかということは、意味をなさないのです。戸を開けるかどうかは、この主人にすべてかかっているということです。

このことを通して、先に行ったことがより明確になります。
つまり、私たちは、私が救われるということを考える時、どうしても何か自分の側に主体があって、私という存在が主体的に働いていくことが大切であると捉えてしまう、その人間の在り方にイエスがそうではないと唱えたのです。
家の戸を開けるかどうかが主人の側に主体があるように、私たち一人一人の救いの出来事もすべて神の側に主体があるのです。

神がわたしたち一人一人に働くことによって救いはもたらされるのです。
救いの主体はあくまでも神にあります。決して、私たち人間の側にあるものではないのです。
こちらの意思に神が合わせて戸を開けるのではない。これが救われるために努めることの第一点であると言っていいでしょう。

そして、この主人は、私たちに対して「不義を行う者ども」と厳しい言葉を投げかけます。ですが、これが私たちの本来の姿なのです。私たちは、神の御前において不義を行う者でしかないのです。神の出来事を、人間の出来事にしてしまうという傲慢さ、そのことによって人が人を裁いてしまうという罪を露わにするのです。

ですから、私たちは、このことを深く自覚し、見つめ尽くし、このことを悔い改めていくのです。
戸口はいつまでも開いていません。いつか閉ざされるのですから、私たちは、それこそ努めていくことが大切でしょう。だからこそ、天国に入る門は、狭いのです。私たちは、つい自分のことを棚に上げてしまう。神がすべての人間を救ってくださっているのだから、何もしなくても良いという怠惰な心が生じてしまう。

下関教会のティーンズ礼拝での罪の告白では、私たちが主日で使う言葉に加えて、「行いと怠りによって罪を犯しました」と告白します。私たちは、行いによっても、怠りによっても罪を犯す存在なのです。
だからこそ、神の御救いに与るために努めていくこと、自分を徹底的に見つめ、自分の罪を暴いていくこと、悔い改めていくことが大切なのです。

ルターは、私たちの救いの出来事は、行いによってではなく、神の義によってもたらされると語っています。しかし、同時にあの95か条の提題の第一提題に「わたしたちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めなさい・・・」と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」と語っています。

私たちの人生とは、ルターが語るように全生涯が悔い改めそのものとなっているのです。決して、私は救われているといおごり高ぶるのではなく、日々、その時、その時、悔い改めつつ、神の御前に本当に謙っていくそのような生を生きるのです。

ですから、この質問者の質問は、的外れな質問であるということが明らかにされます。つまり、救いに与る者が多いとか、少ないとかという物差しは、無いのです。
本来であれば、私たちは誰ひとり神の御前に正しくない、不義を行う者なのですから、救いに与るにまったくもってふさわしくないのです。しかし、そのような私たちのために神は、愛する御子をこの世に遣わし、神の御ことばを語り、神の出来事の神秘を示し、そして、私たちのそのような罪を贖うために十字架に架かり、死んでくださったのです。

イエスご自身、罪が全くなかったのに、私たちの罪のゆえに死んでくださった。私たちは、この真実に心から打ち砕かれなければならないのです。そして、この出来事によって、神は私たち一人一人が本当に謙り、悔い改めの生へと招いてくださっているということを心に刻んでくださっているのです。それは、一人一人の心に刻まれた十字架です。

キリスト者として生きていれば、それは済んだ、済んでいますとは言えません。私たちは生きている限り、このことを努めていくのです。しかし、それが徒労に終わることはありません。パウロがコリントの信徒に「924あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。25競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」と語っているように、私たちは主の栄冠を受けるために走るのです。努めるのです。

その先にある主の御救いの出来事がある。そのことに希望を抱きながら、同時に神を畏れながら、この悔い改めの生を生きてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

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