2013年9月18日水曜日

9月15日 聖霊降臨後第17主日 礼拝説教

「もれなく救済」

主日の祈り
全能・永遠の神様。あなたは、信じる者に、まことに貴い約束を与えられました。あなたの約束を信じて、あらゆる疑いに打ち克つ強い信仰を与えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。
本日の聖書日課

第一日課:出エジプト記32:7-14(旧147頁)
32:7 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 8 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 9 主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 10 今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」 11 モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。 12 どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。 13 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 14 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

第二日課:テモテへの手紙一1:12-17(新384頁)
1:12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。 15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

☆福音書:ルカによる福音書15:1-10(新138頁)
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3 そこで、イエスは次のたとえを話された。 4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日与えられている福音書の日課は、見失った羊のたとえと無くした銀貨のたとえという二つのたとえ話をイエスが徴税人や罪人たち、ファリサイ派や律法学者たちに話されたたとえ話です。
いずれのたとえ話も無くなっていたもの、見失っていたものが見つかるというたとえ話です。たとえ話自体は至極単純な話です。
見失った羊のたとえは、当時羊は大切な財産の一部でした。ヨブ記などを見ますと、羊が天からの火で焼け死んでしまったこと、そして、ヨブ記の最後には、失っていた羊が神様によって一万四千匹になったとつづられているように、ユダヤの人々にとっては大変重要な財産だったことをうかがい知ることができます。

また、銀貨も大切な財産です。みなさんもお持ちの聖書の後ろの方に聖書に出てくる単位についての解説が載っているページを開いていただければ分かりますが、1ドラクメとは、当時でいう1デナリオンです。ルカは、ギリシャ世界の人間ですから、読者がギリシャ語を読む人だったのでドラクメで表現していますが、いずれにせよ、1デナリオンとは、1日の賃金にあたるそうです。
そのドラクメ銀貨10枚のうち1枚が失われたのですから、この女性のように家中を探し回るのは当然でしょう。そして、それが見つかったことは、大きな喜びと共に安心を得ることではないかと思います。

しかし、このたとえ話はただ単純に見つかったものが見つかったら喜ぶだろうという話をされたのでしょうか。そうではありません。二つのたとえ話失われていたものが、その人のもとに戻ってきたということが主題であると思います。しかも、それはただ単純に無くした、見つけたという問題ではないのです。もっと根本的で、深い神様の出来事がここには示されているのです。

まず、このたとえ話を話されるうえでイエスが置かれていた舞台設定を見ていきましょう。
イエスは、この時、近づいてきた徴税人や罪人たちと食事をしていたという場面が1節、2節に記されています。
このことは、ユダヤ人の人々から見ればありえない、あってはならない光景が目の前に広がっていたのです。なぜならば、この両者は、ユダヤ人たちから見るならばもっとも関わりを持ってはいけない人々だったからです。
当時、徴税人というのは、当時の支配者であったローマにくみする者として大変嫌われていました。同胞の者たちから税金を搾取し、ましてやそこからマージンを取って税金をピンハネしていたような者も居たからです。敵国のような存在に心を売った裏切り者、同胞を苦しめる者として嫌われ、関わりを敬遠されていました。

そして、罪人は言うまでもなく、そのような者と関わりを持てば自分たちも罪に陥ってしまうのです。なぜならば、罪人に触れられた者もまたその罪が伝染し、相応しい清めの期間を過ごし、清めの儀式とささげ物を献げるということが律法によって定められていました。自分がどれだけ正しいかということが救いに与る最良の方法だと考えていたユダヤ人たち、特にファリサイ派や律法学者といったユダヤ人の中の有力者にとっては、益々あり得てはならない状況を目の当たりにしていたのです。

だからこそ、2節で「この人は罪人を迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。」と記されているのです。
しかし、このファリサイ派と律法学者たちの言葉に既に神の救いの出来事が記されています。
それは、「迎える」という言葉です。
この言葉を聴いて皆さんは、どう思うでしょうか。あぁ神様はなんて優しいお方だと思うでしょうか。あぁ私を招いてくださっていると思うでしょうか。あぁ神様は罪人こそ迎えてくださっているのだと思うでしょうか。
だからこそ、この招きに私たちは応えていこうと思います。
しかし、これはたしかにそういう一面もあるでしょう。しかし、実を言うならば、もっともっと奥深い神の出来事がこの言葉には顕されているのです。

たしかに迎えてくださっているという要素もありますが、むしろこのファリサイ派や律法学者たちの言葉をギリシャ語に戻って直訳するならば、「迎えて」という意味よりも「受け入れている」という意味になります。
つまり、ここでは罪人や徴税人たちとも食事をしてくださる優しいイエス、憐れみ深いイエスという以上の出来事が起こっているのです。

つまり、イエスは、誰からも相手にされず、社会からもつまはじきにされ自分の存在や、尊厳を小さくされている人々、誰もその人の存在を受け入れようとしないような存在をその身に受け止めてくださっている。ここの言葉が受動態で記されている通りです。しかも、食事を共にするということは、ユダヤ教にとってもとても大切なことでした。
ユダヤ教においては、安息日の礼拝の跡には、共に食事をするそうです。主の恵みに与った兄弟姉妹たちとの交わりを大切にしているということです。

しかし、ここでイエスと共に食事をしている人々は、その交わりから漏れている人々です。誰も交わろうとしない存在です。先ほども言ったように社会の中では圧倒的に弱くされ、抑圧と、惨めさの中で生きねばならない。交わりも断たれ孤独に生きねばならない存在でした。イエスがそのような存在とされていた人々との交わりをしたということは、そのことからの回復を意味しているのです。
何もかも失われ、自分は罪ある状態のまま死なねばならない存在かもしれない、神の御救いから漏れてしまった存在かもしれないという不安と怖れの中で生きねばならなかった人々にまさに御救いの出来事を示してくださったのです。
ですから、ここで食事を共にしたということは、ただ単純に食事の席が設けられていて、そこで楽しく食事を楽しみながらイエスの話しを聞く時間ということではないのです。

ここでは、罪人、徴税人たちの存在が回復され、あなたたちを私は受け入れる、受け止めている。あなたの悲しみも、不安も、恐れも、孤独感もありとあらゆる辛苦を知っている、私との交わりを回復されているというイエスの深い愛が示されているのです。愛が示されているということは、そこに救いの出来事が起こっているということです。ただ単純に舞台設定しているのだと思われている御ことばが実は、私たちに与えられている福音として響いているのです。

このことを受け取りながらたとえ話を読むならば、このたとえ話がただ単純に見つかったものが見つかったから喜ぶという例話でないことが明らかにされます。
つまり、ここで失われていたと思っているのは、私たちなのです。神は決して見失っていない。私という存在を神はとらえて離さないのです。けれども、私たちは何時の間にか罪人、徴税人というような存在の人々を社会から追い出してしまう。周辺へと追いやろうとしてしまう。そのような人々の振る舞いを否定してしまう。
その人の存在を見えないように、あるいは見ないようにしてしまうのです。

本来であれば、誰が罪人か、誰が裁かれる存在かということは、私たちの側に無いのです。
今日の第一日課に記されているように、すべての事がらのイニシアチブは、神の側にあるのです。神が裁くというならばそれが起こり、裁かないというならばそれはまだ起こらない。神があなたを救うと言えばそれは起こるのです。
私たちは、生きている中で様々な誘惑に合い、あたかも自分は正しい人間であるということを誇ろうとしてしまいます。私こそ神様の救いに与るにふさわしい存在である。社会で中心の存在である、教会で中心の存在だと思う。
しかし、そうではないのです。私たちは、どこまでいっても神の御前においては正しさなど一つも誇ることができない存在でしかないのです。私たちは本日の福音でイエスと共に食事に与っている罪人、徴税人なのです。

そのような存在であるということを私たちは御ことばによって深く悟ることが知らされているのです。
それならば救いは無いのか。そうではありません。
この二つのたとえ話の最後にイエスが語っているように、神は「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」と私たちに語りかけます。つまり、罪人の悔い改めを何よりも喜んでくださっているのです。私は何をしました。私はこれだけ正しいということを神に言うのではなく、素直な心で、純粋に私はあなたの御前に罪を犯しました。どうか赦して下さいと自分の罪を露わにすることを神は喜んでくださるのです。

そして、そのことをイエスは、見失っていた一匹が見つかったこと、ドラクメ銀貨が見つかったこととして話しています。ここで使われている「失う」という言葉は、ほかに「滅ぼす」とか「死ぬ」という意味があります。
つまり、私たちは罪によって滅ぼされるべきそんざいであった、死ぬべき存在であった。しかし、神はそのような私たちを見つけ出し、交わりを回復し、深い憐れみを示し、何よりもあなたは私の大切な存在であるという愛を示し、私たちをみ救いへと導いてくださったのです。

パウロは、罪に死に、キリストによって生きると証ししています。まさに私たちは、この罪に死すべき存在です。けれども、キリストによって生きる者とされているということがこのたとえ話に既に示されているのです。キリストに生きるということは、キリストの十字架の出来事、復活によって示された永遠のいのちの約束の中に生きるということです。
罪によって陥る不安や、疎外感、孤独感という暗闇の中に歩まねばならなかった私という存在が、キリストの十字架と復活という希望の光の中で歩むことが赦されたのです。

私たちは、この深い神の憐れみと愛に富んだ出来事の中に置かれています。すぐに自分の正しさや、誇りを示したくなります。けれどもそうではなく、神の御前に本当に謙って、示すべきは自分の罪深さ、自分は罪人であるということです。
しかし、そのことに絶望することはないのです。今日イエスは私たちにそのことからの回復を私たちに示してくださっています。そして、絶望ではなく、希望を抱いて生きることができるという福音を示してくださっているのです。私たちの生は、そのような神の深い憐れみと愛の出来事の中にあることを憶えながら今週一週間も過ごしてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

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