2013年9月18日水曜日

9月8日 聖霊降臨後第16主日 礼拝説教

自分を捨てられますか?

主日の祈り
永遠・全能の神様。あなたはキリストによって、すべての民に栄光を顕されました。み霊を注いで、み名を告白する堅固な信仰に、全世界の教会を立たせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課

第一日課:申命記29:1-8
29:1 モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。あなたたちは、主がエジプトの国で、ファラオおよびそのすべての家臣、またその全領土に対してなさったことを見た。 2 あなたはその目であの大いなる試みとしるしと大いなる奇跡を見た。 3 主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。 4 わたしは四十年の間、荒れ野であなたたちを導いたが、あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった。 5 あなたたちはパンを食べず、ぶどう酒も濃い酒も飲まなかった。それは、わたしがあなたたちの神、主であることを、悟らせるためであった。 6 あなたたちがこの所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグは我々を迎え撃つために出て来たが、我々は彼らを撃ち、 7 彼らの国を占領して、ルベン人、ガド人、マナセの半部族の嗣業の土地とした。 8 あなたたちはそれゆえ、この契約の言葉を忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちのすることはすべて成功する。

第二日課:フィレモンへの手紙1-25
1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、 2 姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。 3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 4 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。 5 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。 6 わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。 7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。 8 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、 9 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。 10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。 11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。 12 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。 13 本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、 14 あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。 15 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。 16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。 17 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。 18 彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。 19 わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。 20 そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。 21 あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。 22 ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。 23 キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。 24 わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。 25 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

☆福音書:ルカによる福音書142533
14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

私たちは、キリストと出会い、キリストの御ことばに慰められ、励まされ、時に啓発されます。そして、このキリストの御言葉との出会いを通して、キリスト者へと導かれ、私たちはキリスト者としての歩みを日々歩んでいます。
何気ない日常を私たちは、過ごしますが、その一つ一つの時がキリスト者としての歩みとなっていくのです。
その中で、キリスト者とは何かと考えた時、それはイエスの弟子となることというのも一つの解答であると思います。弟子の働きには様々ありますが、いずれにせよかいつまんで言うならば、すべてのキリスト者は、イエスの弟子であると言えるでしょう。

このようにイエスの弟子である私という存在を見つめるとき、ではイエスの弟子であるということはどういう事かということを考えずにはいられません。その中で、人は、社会福祉の事がらに従事すること、与えられている仕事に従事すること、福音を宣べ伝えることに従事することなどの召しを与えられ、その神の召しに私たち一人一人は応える人生を歩んでいるのだと思うのです。

では、その弟子として歩むことの根本は何か。
それが今日与えられている御ことばによって明らかにされているのです。
イエスは、御自分についてくる大勢の群衆に向かって言います。
 26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 
33自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
イエスが群衆たちに述べたこの弟子の条件を聞くと非常に難しさを憶えます。
私たちは、それぞれお一人お一人に「父、母、子供、兄弟、姉妹」が居ます。そして、自分の命もあります。そして、これらイエス様が列挙したものを大切にしたいと願っていますし、実際に大切な存在です。
ましてや、自分の命は、欠かせないものであると思います。
しかし、イエスは、私たちが大切にし、時に私を支えてくれる存在を憎まないなら私の弟子ではないというのです。

この「憎まない」という言葉は、ギリシャ語で直訳するならば、「少なく愛する」です。つまり、イエスは、愛する対象は、ここに挙げた存在ではないということを言っているのです。
本当に愛する対象は誰かということを明らかにしているのです。私たちは、キリスト者として十戒を聴いています。そして、神は父母を敬えと戒めます。しかし、それは何が前提か。ただ単純に父母を敬えば良いのか。自分たちの兄弟姉妹、いのちを愛せば良いのか。
そうではないのです。私たちが、それらのものを本当に愛することができるのは何故かということを突き詰める必要があるのです。そして、言ってみれば、そのことなしに他者や自分の命への愛はあり得ないということを覚える必要があるのです。

今日与えられた御ことばの背景にはセム語的な考え方があるという神学者があります。
光と影、真理と偽り、愛と憎悪というように、半分陰影のあるような中間色があるような「あれもこれも」ということではなく、「あれかこれか」ということを好んで用いたのです。ですからセム的な言い方をするのであれば、「あれよりもこれが好きです」ということは、「これが好きであればあれを憎む」という表現になるのです。

こういった背景を知るとイエスの御ことばの真意が分かるのではないでしょうか。つまり、イエスは、何も「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 」と語っているのは、それを憎めというのではなく、先ず第一とする存在があるということを明らかにしているのです。

そして、それに続く自分の十字架を背負うということは、ただ単に重荷を背負うということではないのです。十字架とは、罪の象徴です。つまり、ここでイエスが語ることは、真剣に私たち一人一人が自分のうちに内在する罪を見つめ、それに目を背けるのではなく、それを担って、私についてきなさいと言うのです。
そして、そのことを神の御前に正直に告白する。私の罪を露わにすることを恐れるなということをイエスは私たちに伝えているのです。

なぜならば、それは究極的にはイエスご自身によって贖われるからです。私たちは、救いに与るには何か自分の身も心もきれいな状態でいなければならないと思ってしまいます。そして、イエスの時代そのような考えが蔓延していました。いかに自分が清廉潔白な存在かということを証明すること、それに執着していたのです。しかし、イエスはそのような人間の思いに否を唱えたのです。そうではなく、むしろ自分の十字架、罪を見つめ、それを担って私に従い、神の御前に立ちなさいというのです。

ここで旧約聖書を見てみましょう。
今日与えられた第一日課は、申命記29章です。ここは神がイスラエルの民にホレブで結んだ契約とは、別にモアブで結んだ契約のことばです。モアブは、カナンのすぐ手前です。そこで神は、イスラエルの荒野の40年の出来事を想起しながら語りかけます。
今まさにカナンに入ろうとしている中で、改めて40年の荒野での出来事を通して、イスラエルはその中でも迷い、時に神に背きながら、そして、本当に私たちは救われるのか、約束の地などあるのかという不安の中で歩まねばならなかった。

その、怖れと不安の40年の歩みのクライマックスに神は、神の出来事を明らかにするのです。
「わたしは四十年の間、荒れ野であなたたちを導いたが、あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった。 5 あなたたちはパンを食べず、ぶどう酒も濃い酒も飲まなかった。それは、わたしがあなたたちの神、主であることを、悟らせるためであった。 6 あなたたちがこの所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグは我々を迎え撃つために出て来たが、我々は彼らを撃ち、 7 彼らの国を占領して、ルベン人、ガド人、マナセの半部族の嗣業の土地とした。」

神は、私たちの恐れや疑いの心、不安な心を御存知です。そして、そのことを見逃しません。背いたときには、はっきりと怒り、不安な時にはそれを取り除いてくださっていたではないか。ましてや、あなたたちの着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかったではないかと言うのです。つまり、それはあなたたちが如何なる時であってもわたしがあなたたちを導いていたという真実を明らかにしています。
私たちがどんなに困難や苦難を憶え、生きることのむずかしさ、寂しさ、辛さを味わおうとも私はあなたと共に居るということをこのとき、しめしてくださったのです。

私たちは、イエスの弟子として歩むとき難しい選択を迫られます。先ほども言ったように、「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」ということを通して、誰をまず第一に愛するかということ、自分の罪を露わにしながら歩むということ、これらは、本当であればできれば避けて通りたい事柄です。
やはり、自分の命の方が大事だと思ってしまいます。私は清廉潔白で、信仰によってこれだけ祈っている、あなたに従うためにこれだけのことを行っていると誇ろうとし、自分の弱さや、時にそのことを通して神の御旨ではなく、自分の思いを大にするという罪に陥ってしまてっている自分を隠そうとしてしまいます。

今日の福音書の最後に
「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
と言うのは、言い換えるならば、自分の弱さも、自分の生きてきた中で得てきたことも全部無にして神に委ねよとイエスは語っているのです。二万の兵を前にした一万の兵を率いる王のたとえにおいて、「和を求めるだろう」という言葉は、言ってみれば全面降伏です。
そのことをイエスとの出会いの中でとらえるならば、イエスの恵み、イエスの語る福音を前にして、そのことに全面降伏せよということです。それが、自分を無にして、イエスの贖いの十字架、救いの御業、御ことばに委ね、従うということなのです。これがイエスの弟子として歩むことであるというのです。

自分の無にする時、やはり私たちには怖れや不安を抱きます。しかし、神がモアブでイスラエルに「8 あなたたちはそれゆえ、この契約の言葉を忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちのすることはすべて成功する。」と語りかけたように、神の御ことばに従う者は、その後の出来事においてそれらはすべて導かれ、なすべきことを成すことができると約束してくださっています。
この申命記の箇所をパウロもローマの信徒への手紙11章の中で引用しながら、神の御ことばに従うということは、神の恵みによってなっていく、決して自分の行いではなく、神の御ことばによって私たちの生は導かれ、御国へと至る、救いに与るというのです。

私たちはイエスの弟子として歩むとき誇るものはありません。むしろ、自分の弱さ、自分の得て来たもの、大切なものをまず無にし、むしろそれを正直に担い、神に差し出す。そこから始まる神の愛によってもたらされる救い、大いなる恵みに委ねていくことへと招かれています。恐れる必要ありません。自分を無にしたとき、かえって大いなる神の恵みを受け取るものとされ、それまでの生よりも豊かな生が備えられているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。



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