2013年9月14日土曜日

8月18日 聖霊降臨後第13主日 礼拝説教

主は見逃さない
主日の祈り
神様。あなたは思いにまさる喜びを、愛する者に与えられます。すべてにまさって、あなたを愛する心を私たちの中に興し、私たちの願いを超えたあなたの約束に与らせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書232329
23:23 わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。 24 誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。 25 わたしは、わが名によって偽りを預言する預言者たちが、「わたしは夢を見た、夢を見た」と言うのを聞いた。 26 いつまで、彼らはこうなのか。偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、 27 互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちがバアルのゆえにわたしの名を忘れたように。 28 夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと/主は言われる。 29 このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。

第二日課:ヘブライ人への手紙12:1-13
12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。 6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」 7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 13 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

福音書:ルカによる福音書124953
12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。 53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、わたしたちにあるように。アーメン。

始めにはっきりと言ってしまうならば私たちが生きるこの世の中は、決して平和とは言えないでしょう。
何も世界情勢的な面からでなくても、個々人のことに目を向けてみてもそうかもしれません。本当に現代社会に生きる人々の心は傷つきやすく、もろくなってしまっています。
そして、そのような人は一層その人自身の存在を弱められていきます。社会の中でちゃんと生活できないのは、その人が悪い、もっと強くなればいいのだと、自分のそれぞれの価値観を押し付けてしまいます。

そして、それはともすれば教会の中でも起こりうることです。教会とは、人と人とが集い、神の御ことばに聴く場です。そのような中で、やはり色々な人が集います。
その中で、もしも心に疲れを憶え、日々の暮らしに疲れ果てた人が居たとします。そしてそのことに本当に心を痛めていらっしゃる。どうしたらこの苦労が報われるのか、払われるのか、困難から抜け出せるのか。そういう思いを神に聴きに来る方、また私の信仰が弱いからいけないのだと思ってしまい、信仰を持っていることにすら苦しんでいる方もいらっしゃいます。

そういった苦難を、困難さを私たちはいつでも抱えている存在です。
そのような中で私たちは、できるだけ苦しまずに、悩まずに、悲しまずに生きたいと願います。私自身もそのような弱さを持っています。私はある時から怒りという感情をなるべく抱かないように生きていこうと決めたことがあります。
それは、何故かと言うならば怒れば怒るほど自分の感情を抑えることができなくなり、益々気分が落ち込んだり、苦しかったりするからでした。怒らなければ平安に、安心して生きていけると思っていたのです。しかし、そのように生きていた数年間は、ちっとも安心した気持ちになれませんでした。

なぜならば、なるべく怒らないようにとびくびくしながら生きていたからです。人間関係においてもそういう怖れを抱いていますから、なかなか本気になって人と向き合うということができなくなっていったのです。怒りと言う感情を持たないように生きたら平和に、平安に生きていけると思っていたのですが、そうではなかったのです。
平和に生きたいという願いを私たちは持っています。そして、そのことを実現しようと色々な手段をこうじます。しかし、それが中々うまくいかない、いってないのが今私たちが置かれている社会、現実なのではないかと思うのです。

では、どうしたら本当に平和に私たちは生きることができるのでしょうか。
聖書に聴いて生きましょう。
今日、与えられた福音書の日課は、「分裂をもたらす」というセンセーショナルな表題の付けられた福音書箇所です。私たちは、神から平和、平安を与えられているという教えを御ことば受けています。しかし、今日イエスは、そうではない「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」と語ります。
一見するとこれはイエスが何か恐ろしいことを語っているように思います。「火」と聞くと、私たちはパッとイメージすることは、あまりポジティブなイメージではありません。どちらかと言うと、火はあらゆるものを燃やしますから、滅びとか、その者が消されるようなイメージを持ちます。火とは恐ろしいという思いを抱きます。

しかし、ここで語られている火とは、そういう私たちのイメージを覆す火なのです。
あえて言うならば、私たちはこの火によって燃やされねばならない存在なのです。私たちは、先ほども言いましたようになるべく平和に生きていきたい。マイナスな感情や、状況を経験せずに生きていきたいと願います。
しかし、その中でひとたび苦難を味わわねばならなくなると、本当に心が揺さぶられ、怖れを抱きながら生きねばならなくなってしまいます。

理性的にそのことをとらえると、その原因は何なのか、非は私にあるのか、何を改善すればいいのかという知恵を働かします。けれども、本当に苦しい時、悲しい時、困難に突き当たるとき、ありとあらゆる理性的な観念が太刀打ちできなくなります。どんなに考えても分からない、何故私がこのような状況に、このような状態に追い込まれなければならないのかという思いが心を支配するのです。

「なぜ」という問いかけは、胸をえぐりだし、魂を傷つけるような問いを抑えることができないのです。そして、そのお一人お一人の「なぜ」という問いは、その人だけの「なぜ」でなく、人間の根源的な問いかけ、私たち自身の問いかけとなるのです。聖書にある盲目の人が、何故盲目なのか、この人に罪があったからか、それとも祖先に罪があった結果かという問いもそうです。
その問いに対してイエスは答えるのです。「神の御業が彼に現れるためである」と。ここにわたしたちの「なぜ」を解決する答えがあります。

魂の傷とは言ってみれば、良心の呵責や、神と和らがず平安のない私たちの心の奥底にある憎しみです。私がいけないのだ、こんなんだから罰を受けたのだという自分自身への憎しみ、そして、同時に、神がいるならば、私を救うというならばなぜこのような状況に私を置くのかと云う憎しみです。

そのような傷に対してイエスは言うのです。「あなたの罪は赦された」と。
そして、その究極の出来事が、イエスの十字架の出来事なのです。イエスが「地上に火を投ずるためである」と語ったのは、このことを明らかにするためでした。私たちは、信仰を持ちながらもちっとも平和な気持ちになれない、平和を実現することができないと嘆き、悲しみます。その中でもし、苦難を味わわねばならなければ、何故と思ってしまいます。そして、それは先ほども言いましたように、神への憎しみすら抱くのです。

私自身、怒りという感情を持たずに生きれば幸福に生きることができると思っていたけれど、なされなかった。信仰を持ったらあらゆる苦難に打ち勝つことができると思っていたのに、勝てない。
心の痛みが癒されると思っていたら、益々神を憎むことになってしまった。
これが人間の実存であり、姿です。だからこそ、私たちは「なぜ」と問うのです。

神は、その問いかけに沈黙しません。なぜならば、神は具体的に愛する御子イエスをこの世に遣わしてくださったと聖書が語っている通りです。そして、そのことを通して神ご自身が人間のあらゆる問いかけを経験したのです。
イエスご自身、あのゲッセマネの祈りの時、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈った。これは人間の真実の祈りです。私たち自身もやはりこのように祈るのです。
しかし、そこからイエスは、さらに祈りの言葉を続けます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
これは信仰が強いとか篤いという問題ではありません。

私はこのイエスの語る「火」に燃やされる、それは苦難か、困難か、痛みか、悲しみか分かりません。いずれにせよありとあらゆる姿をとって私たちに投じられるでしょう。しかし、私たちはそのことに恐れを抱く必要が無いのです。その答えはイエスご自身が示してくださったのです。
イエスご自身が、その人間として味わわねばならないありとあらゆる火を味わいつくしたのです。それは、迫害であり、苦難であり、悲しみであり、嘆きでありました。そして、その究極の姿として十字架の死でした。
死は私という存在の終わりをイメージします。しかし、イエスは、その十字架の死によって、始まりを示したのです。

「なぜ」と問う私たちにイエスは、その十字架と復活の姿によって、その「なぜ」という問いかけが癒され、すべての人がこの魂の傷から逃れを与えられ、目が開かれるようにと神の栄光を示したのです。
そして、この私たちの「なぜ」に対してただ十字架と復活の姿を示されるだけです。しかし、それで十分なのです。あなたの「なぜ」は、十字架にかけられ滅んだ。そして、復活によって、そのことから解放され、癒され本当に生きる者とされるという真実を物語ってくださったのです。

私たちは、理性的に「なぜ」を問い続けるならば、おそらくその答えは、出ないでしょう。解決されたと思ってもまた新しい魂の傷を抱えねばならなくなってしまうでしょう。
私たちは抱えねばならない「なぜ」は、必要な問いかけです。この問いかけが私たち一人一人の闇を映し出すからです。そして、その「なぜ」に対してイエスは、十字架によって、復活によって光を投じてくださった。まさに火を投じてくださったのです。それはこの世の考えや、理性からの分裂です。

それは信仰の目を開く火でした。 私たちは、時々感情的になり、時々自分本位になり、また時々理性的にもなります。しかし、さらにその上に信仰によってそれを受け取めることができることを知っています。それがイエスの祈りの姿、十字架の姿、復活の姿に示されています。この神の恵みと導き、ゆるしと愛を信じる道を進んでいければと願います。
私たちの小さな心で計り知れない神の業が、私たちが味わう「なぜ」の中に秘められています。その神の神秘、神の御業が私のうちに働いているのだということを思いながら歩んでまいりましょう。
その信仰的な目がいつ開かれるか分かりません。今か、明日か、既にか、それともこの世の肉体的な死に際してか。そのご計画は神のみぞ知るです。しかし、必ずそれが解決される神の道が示されています。

そして、この神の道をイエスご自身が歩んでくださり、私たちのありとあらゆる魂の傷を癒してくださいました。ですから、今週はこのことを胸に刻んで歩んでまいりましょう。私たち一人一人の抱える「なぜ」は、御ことばを通して、十字架をとおして、復活を通して回復されています。
主は私たちの「なぜ」という問いかけを見逃しません。そして、そのありとあらゆる「なぜ」という問いかけを、イエスの十字架と復活によって解決されています。このたった一つの出来事によってもたらされる大いなる神の恵みを心に抱きながら今週一週間歩んでまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって、わたしたちを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。


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