2015年9月10日木曜日

100周年記念の準備にあたる中で

私が牧会を任されているルーテル下関教会は、今年で宣教100周年を迎えます。
もともとは、門司にあるルーテル門司教会の講義所として始まった小さな群れが、教会となり、戦災による会堂消失、幼稚園の閉鎖などの困難を乗り越えながら、100年の時を刻んできたのです。

私は新任でこの教会に遣わされてきましたから、はじめ何故わたしのような新任牧師にこんな大切な節目の時を任せるのか!?などと心の中ではごねていました。
しかしながら、準備にあたる中で、一つのことを思い出しました。
それは、私が牧師への献身の道を開いてくださったみ言葉です。

1:7しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。 8彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。 」(エレミヤ書1章7節、8節)

わたしたちは、様々なことを通して恐れを抱きます。
自分に自信が無かったり、力及ばないと思うとそれは益々大きくなって心身を飲み込もうとします。
しかしながら、神様は預言者としてあなたを召し出したと告げられ、恐れおののくエレミヤに対して、「恐れるな」と告げます。
なぜならば、神様は共に居てくださるからです。

そして、同時に「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。」(申命記1章29節、30節)とおっしゃってくださっているように、恐れおののく私たちのために神様は戦ってくださり、この恐れを取り除いてくださるのです。

私は、この記念事業を準備する中で改めてこの神様の姿に気づかされました。
今も恐れはあります。本当にこれでよいのか、本当に私なんかが適当なのかと様々に思いめぐらします。けれども、この教会のために先頭に立ち働いてくださったのは、神様ご自身です。
そして、その神様に信頼して多くの人々の働きが成り、この方々によって100年の歩みが刻まれてきたのだと確信するに至りました。
だから、私もこの下関教会の信仰の先達に倣って、神様が先立って良い方向へと導いてくださっていると神様を信頼していこうと思うのです。

100年は、ハッキリ言ってしまうならば通過点です。これからも下関教会は、時を刻み続けます。
しかしながら、主が先立つ、主が共に居るということをいつも覚えながら、主に信頼して歩み続ける教会であるように牧師としてしっかりと働いていきたいと今は考えています。




2015年7月31日金曜日

徒然

たぶん戦争をしたいと思っている人は殆ど居ないと思うのです。
いろんなしがらみに囚われると利権とか、利益とかを考えちゃうから変な流れに乗って、本来の欲求とは違う方向が正しいと頑なにを考えてしまうのだろうと思うのです。

個人的には、たしかに戦争や、攻撃される可能性があるわけですから、どうにか守っていく必要はあると思いますが、今回の安保法案には反対です。A国の言いなりだとか、C国さんが脅威だとか、K国がミサイル向けてるとか色んな意見がありますが、そもそも憲法解釈が違憲だという意見があるのにそれが無視されてしまった事が腑に落ちないからです。

さて、平和って一言に言っても三者三様です。
僕なりに考える平和は、相手を受け入れる事に尽きると思うのです。
それは、相手を心から思って、相手が本当に望んでいる声を聴き取るっていう途方もなく、面倒で、難解で、困難なことだろうと思います。
でもね、僕は一人のキリスト者としてこれを実現したいなぁって心から願っています。

ミカ書4:3〜5
3主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。4人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。5どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。

ミカ書の有名な箇所です。
ミカの時代、イスラエルは、神様の背信の故に、神様によって他国を攻め上がらせて、国の存続が危ぶまれました。実際、北イスラエルは滅ぼされてしまいました。

でも、神様の裁きは滅びで終わりませんでした。
争いの後、ことごとく武器は平和の道具に変えられたと記されているように、平和が必ず訪れると預言しています。

さらに言うならこれは独善的な平和ではありません。
「5どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。」
互いに認め合い、共に生きていくということです。
僕はキリスト者ですけど、神社を拝んでも、仏さんを拝んでも、ヒンドゥーでも、ムスリムでも良いと思うのです。
ただそれをキリストこそ正しいと頭ごなしに否定するのではなく、互いに相手を思うこと、先にも書いたように相手の声を聴き取ることが平和への遠道のように見えて、何よりも近道だと思うのです。

だからこそ、根気よく議論を続ける事、反対であっても賛成の方々の意見にも耳を傾けていかなければならないのではないかと最近思い始めています。
だから無理して結論を出す事もないように思います。

今の政治家の人たちは、なんだかそこが欠けているように思うのです。
互いに相手の声に聴くことなくいってしまっているように思います。

今度の主日の説教考えながらこんな事を思った次第です。

※写真は我が家の平和の象徴です。

2015年1月29日木曜日

神の言のあるところに喜びがある

私が牧会に遣わされている日本福音ルーテル下関教会は、今年宣教100周年を迎える。
その大事な一年のための総会となった。
前々から述べているが、教会には30代、40代の方々が世代分布的にも抜け落ちている。
一番仕事の忙しい時であり、なかなか教会に繋がらないというのが現状であろうし、忙しさの中で心の安らぎを求めていたり、何か生活の芯のようなものを求めているとは思うが、それを教会に見出していないのだろう。

しかしながら、神の福音は、すべての人々に宣べ伝えなければならない。
イエス・キリストが復活し、昇天の直前に弟子たちに
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
と伝えている。いわゆる、イエス・キリストの大宣教命令と言われている箇所である。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という約束は、言い変えるならば「わたしの言葉(福音)は、世の終わりまで共にある」ということではないだろうか。
そして、この神の言があるところには、主イエスの受肉の出来事によってこの世に顕れてくださった喜びがあり、神が人間と共に生き、私たちの悔い改めと救いに対して、天で喜びが満ち溢れ、主イエスの復活と昇天の出来事によって弟子たちに喜びと、情熱を燃え立たせた。
つまり、神の言のあるところにはいつも喜びがあるのだ。
まさに主イエスが「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(ヨハネ15:11)と語っている通りである。

教会に集う50代以上の方々は、どれほどこの神の言から与えられる喜びを下の世代に伝えているだろうか。
翻ってわたし自身もこの喜びを伝えられているだろうか。
ともすれば、御ことばを取り継ぎ語るのは、牧師であると、専売特許のように言われる。
もちろん、正しく聖礼典が行われと御ことばが取り継がれることは何よりも大切であるが、あまりにもそれを牧師に押し付けていやしないか。
宣教について与えられている使命は、すべてのキリスト者に対してである。
聖書に書かれているということは、それが特定の者に対するイエスの命令ではなく、私たち一人ひとりに与えらえている召しであり、使命である。

この使命を一人ひとりが担い、神の言のあるところに喜びがあるのだということを宣べ伝えていかなければ、教会は、衰退していくだけである。
何か方法があるとか無いとかではなく、一人ひとりがこの神の言によって与えられた喜びを体現していくことが、教会の方策や施策に寄らずとも、キリストとの出会いが多くの人に与えられる宣教となるのではないだろうか。

批判的にとらえているように見えるが、そうではない。
これは一種の自分への戒めでもある。やはり私自身も牧会者として立たされ、神の言の喜びを体現し、それを伝えているかということを問われているのだと思う。
2015年4月で牧師生活4年目に入る。
そのような若輩者に、100周年という大きな出来事を迎える教会へと遣わされた意味を今一度、深沈し、神の御旨に思いをよせて歩んでいきたいと思う。

西中国地区信徒大会「るうてる秋の大会」を終えて

日本福音ルーテル教会は、地区という区分けがある。
私が遣わされている下関・厚狭教会は、西中国地区という地区に属している。
地域的には山口県の3教会(厚狭、下関、宇部)、1教会(シオン教会)のうちの3礼拝所(徳山、防府、柳井)と島根県にある2礼拝所(六日市、益田)の4つの教会から成る。

タイトルにある「るうてる秋の大会」とは、この西中国地区の各地にある教会の信徒がともどもに集い交わりの時を持つ大切な時と場所として守られてきた。
以前は、春にも行われていたが、負担を考慮して秋の秋分の日に合わせて開催されている。

今年も多くの方々が集い、一緒に交わりを深めた。
普段は、遠く離れている(山口県は意外と広い)各教会の信徒と顔と顔を合わせてお会いする少ない機会である。
今年は、礼拝と各教会による出し物の発表による交わりとなった。
私自身は非常に楽しめた日であった。

礼拝で、御ことばと聖餐の恵みを共に分かち合い、信仰の絆を神によって深められ、午後からのプログラムでは、殆どの教会が歌による出し物であったが、各教会、礼拝所ともそれぞれに個性が出たものとなった。

しかし、率直なことを述べるならば、青年と中間層が居ない。
私が今年で29歳である。子どもを抜く信徒の中で一番若い。
地方における少子高齢化が如実にこういった集いの構成にも表れる。
山口県における高齢化率は著しく高い。47都道府県中で一けた台のランキングだ。
島根県に至っては、全国2位の高齢化率である。

自分自身は、牧師になった当初、青年伝道こそがこれからの教会に大切だという情熱を持っていた。
しかし、地方の教会に遣わされ目の当たりにする現状は、高齢化社会の波が「さざ波」ではなく、「大波」のように教会にも押し寄せているという現状である。
もちろん、青年伝道の情熱が冷めたわけではない。
しかし、伝道の業を一面的に見るのではなく、自分が置かれている社会の中に在って、この社会にどのように神の御ことばを宣べ伝え、多くの人々が導くことができるのかと考えるともっと伝道という事がらも多面的にとらえる必要をヒシヒシと感じざるを得ない。