2013年7月21日日曜日

7月14日 聖霊降臨後第8主日 礼拝説教

主の御国を告げ知らせる

主日の祈り
私たちの造り主、救いの神様。新しい祭司の群れに入れられた私たちが、誠実にあなたの召しに応え、福音の証し人として、あなたの約束を全世界に告げ知らせる者にならせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:ヨナ書41-11節(旧)1447
4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。 2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。 3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」 4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。 6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。 7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。 8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」 9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」 10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

第二日課:ガラテヤの信徒への手紙52-26節(新)349
5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。 3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。 4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。 5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。 6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。 8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。 9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。 10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。 11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。 12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。 13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。 16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。 22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

☆福音書:ルカによる福音書951-62 節(新)124
9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。 52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。 53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。 54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。 55 イエスは振り向いて二人を戒められた。 56 そして、一行は別の村に行った。 
57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。 58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」 61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、わたしたちにあるように。アーメン。

今日の福音書の箇所の始めを見てみますと、イエス様は、「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」とあります。天に上げられるとは、受難の道を意味します。言葉から考えるならば、召天の出来事を思いますが、その道のりの途中には、十字架の受難、そして、復活の出来事があります。
つまり、イエス様はいよいよ人間の救いのために決心をされた場面なのです。
私たちも何かをしようと思い立つとき、決心をいたします。それが大きな出来事であればあるほど、その決心は相当の覚悟と肝をすわらせなければなりません。

しかし、このイエス様の決心の直後に起こった出来事は、「サマリア人から歓迎されない」と題されたように、人々から受け入れられない出来事から始まります。まさに出鼻をくじかれるような出来事なのです。
ここにおられる人の中にもまた何か決心をしたときに、そのような経験をした方というのは、いらっしゃるのではないでしょうか。私自身もそのような経験を何度かしたことがあります。

イエス様がここで受け入れられなかったのには、歴史的な背景があります。ご存知の方も居ると思いますが、ユダヤ人とサマリア人は、非常に仲が悪かったのです。
なぜならば、それはアッシリアがサマリアの住民を追放してその代わりに民族的にも宗教的にも異なった民族を移住させた時代にまでさかのぼります。そのような中でサマリアでは、他民族との混血の人が生まれるのです。二つの背景を有しているこの混血の人々は、他国の宗教の信仰と、ユダヤ教の信仰を結び付けて一つの宗教をはぐくんで行きました。この渾然一体となった宗教が不純であるということでユダヤ人たちは、サマリアの人々を嫌いました。そして、サマリアの人々もユダヤの人々を嫌うようになっていったのです。

そういう非常に根の深い対立も相まってイエス様は、サマリアの人々から歓迎されずに、その町を通過することになってしまったのです。ここに登場するサマリアの人々は、そういう自分たちの歴史、つまり過去の対立に心を奪われてしまっていたのです。そして、それによって神様の御救いの出来事が近づいているということに気付くことができなくなってしまっていたのです。

私たちは、いま聖書を読む会の中で詩編を読み進めて学びを深めていますが、先ごろ学んだ95編にもそのことについて記した御ことばが登場いたします。それは「心を頑なにしてはならない」という御ことばです。私たちは、この神様の御救いを柔らかな心で受け止めていきたいと思います。けれども、時としてそれができなくなってしまう。まさにこのサマリア人のような心持になってしまう時があります。

けれども、イエス様は、そのような出鼻をくじかれる出来事に出会っても、エルサレムへと向かわれる歩みは止めませんでした。なぜならば、イエス様は、救いをどうしても成し遂げたかったからです。そして、それはすべての人々の救いとなるのです。

イエス様のお姿、教えから見るならば、井戸で姦通の罪を犯した女性が今にも石打の刑に処せられようとしている時、イエス様が「罪を犯したことのない者が彼女に石を投げよ」と言ったとき誰もその女性に石を投げることができずに、その場から去って行きました。しかし、ただお一人イエス様だけは、その場に残っておられました。なぜならば、イエス様は罪を犯したことが無いからです。本来であればイエス様は、その女性に石を投げる権利があります。けれども、イエス様はそうはなさらず、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」とおっしゃられました。

つまり、イエス様は、過去のことは、たとえそれが姦通という大きな罪を犯していたとしても、イエス様は深い赦しでその人を癒し、現在のその人を肯定し、未来へと歩みだす力を与えてくださるのです。救いとは、そういう私たち一人一人のすべてを包み込んでくださるものなのです。

本日の第一日課におけるヨナの物語もそのことを語っています。ヨナは、初め神様からニネベに行って、私の預言を民たちに語れと命じられます。しかし、ヨナは、怖れを抱き、ニネベとは全く逆の方へと行こうとします。しかし、途中で船が難破し、大きな魚に飲まれます。そして、ヨナが悔い改めたとき、魚はヨナを吐き出し、吐き出したところからヨナはニネベに向かうのでした。

ヨナは、そこで一所懸命に神様の預言を語ります。そして、ニネベの人々はヨナの言葉を受け入れ、王も民もそして、家畜も悔い改めたのです。そして、神様はニネベへの災いを思い直されたのです。そのことにヨナは、深い落胆と、怒りがこみ上げたというのが今日の第一日課です。
しかし、ヨナの神様の御ことばの宣教は、大成功に終わったのに不満を抱くのは何故でしょうか、それは、ニネベがアッシリアと言う他国であったからです。ヨナがニネベに行くのを嫌がったのは、そういう他国のためになぜ救いの預言を伝えねばならないのかと言うことでした。
たしかに、ヨナの言い分は分からないわけではありません。私たちもまた、にくい人や、嫌いな人のためにグッドニュースを伝えるのは、何か心にとがめる思いが去来します。
なぜ、敵国の人々のために私がそんなことを伝えなければならないのか。何故神様は敵国を救われたのか。様々な思いがヨナに去来したのです。

この思いは、おそらく福音書に登場したヤコブとヨハネもそうだったのでしょう。おそらく、彼ら弟子たちもイエス様が何かなみなみならない決心をされたということは、近くに居て感じ取ったのでしょう。けれども、そのようなイエス様を受け入れないとはどういうことか?と思ったに違いありません。
ヨナも、ヤコブとヨハネも、神様の御救いについて待ち望んでいる一人であります。そして、この3人の神様に召された者たちは、相矛盾した姿をさらすのです。
一方は、何故敵国のくせに神様の救いに与ることができるのだという怒り。もう一方は、神様の救いを拒否するとはなんということだという怒り。どっちなのだと言いたくなりますが、しかし、これが人間の本質なのです。こういう矛盾を私たちは常にはらんでいるのです。

しかし、イエス様は、神様は、そのような私たちの矛盾など意に介しません。
イエス様も、神様もその思いは、ただ単純に救いたいという思いです。
むしろ、イエス様が救いの道、すなわち受難の道を歩まれる決意を固められ、そして、望まれたことは、このいかなる場合においても頑なになってしまう私たちのための救いだったのです。
その対象が誰であれ神様は、滅びを望んではいないのです。ただ純粋に、一心に神様は私たち人間すべてを救いへと導きたいと望んでおられるのです。

第一日課の最後のヨナに臨んだ神様の最後の御ことばがそのことをありありと物語っています。
「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万二以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
ここに出る「右も左もわきまえぬ人間」というのは、直訳するならば「右も左も分からない人々」となります。つまり、それはいまだに道も分からずに右往左往して、苦しんでいる、路頭に迷っている人、そして、何よりもまだ神様の御救いに出会っていない人々なのです。

神さまは、そのような人々を捨て置くことは出来ないのです。
神さまの御救いは、すべての人々のためにもたらされています。神様は、御救いの福音をすべての人々に伝えたいと心から願い、悔い改めを待っています。
私たちは、その御救いの福音を聞き、神様の深い愛に気付かされた者の群れです。そうならば、何故この平安を、安心を、励まし、癒しを伝えずにいられるでしょうか。私たちは、この喜ばしい御ことばを伝える者として召されているのです。時として、様々な矛盾を抱えなければならないこともあるかもしれません。
けれども、恐れずにこの福音をすべての人々に伝えていきましょう。

神さまご自身が、そう望んでおられ、イエス様ご自身もまた望んでおられ、私たちのために十字架に架かってくださり、復活し、永遠のいのちの希望を与えてくださったのです。これは愛です。
そして、この愛は、私たちの在り様がどうであれ貫かれている愛です。
私たちは、この愛に生かされています。この愛を携えて、この下関の地で福音の伝道に共に励んでまいりましょう。


望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって、わたしたちを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。

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