2013年7月21日日曜日

7月21日 聖霊降臨後第9主日 礼拝説教

憐れに思い近づく

主日の祈り
主なる神様。あなたの民の願いに心を傾けてください。そして、私たちがなすべきことを悟り、喜んで行う力を与えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:申命記301-14節(旧)328
30:1 わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、 2 あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、 3 あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。 4 たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。 5 あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。 6 あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。 7 あなたの敵とあなたを憎み迫害する者にはあなたの神、主はこれらの呪いの誓いをことごとく降りかからせられる。 8 あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。 9 あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。 10 あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。 11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。 12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 13 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

第二日課:コロサイの信徒への手紙11-14節(新)368
1:1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、 2 コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 3 わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。 4 あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。 5 それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。 6 あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。 7 あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、 8 また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。 9 こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、 10 すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。 11 そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、 12 光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。 13 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 14 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

☆福音書:ルカによる福音書1025-37 節(新)126
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、わたしたちにあるように。アーメン。

さて、本日の福音書の日課は、非常に有名なイエス様のたとえ話のひとつです。おそらく、クリスチャンでない人もこのたとえ話を聞けば、おおよその内容が分かるくらいに有名なたとえ話かもしれません。
登場人物は、ある律法の専門家とイエスです。律法の専門家は「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエスに尋ねます。この問いの意味とは、生きる上でもっとも大切なことは何かということです。しかも、試そうとしてとありますから、おそらくこの律法の専門家にとっては、何か一つ答えが自分の中にあったのでしょう。

案の定、イエス様が逆に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返した時、旧約聖書の一説を引用し、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と回答します。
おそらく、周囲に居た人々は、最高の模範解答をこの人は、示した。と思っていることでしょうし、イエスに問い返され、すぐにこの律法の専門家が答えたことから、この専門家も自分で完璧な答えを示したと思っていたことでしょう。

イエスは、この専門家の答えに対して、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と答えます。イエスは、ここで専門家の答えの正しさを示したのです。確かにそうであると、そして、そうであるならば、それを実行しなさいと、さらにそれが永遠の命、先ほども言いましたように、生きる上でもっとも大切なことは自明である。あなたは分かっているではないかと言わんばかりの答えです。

しかし、ここで不可解な展開を福音は語ります。29節「しかし、彼は自分を正当化しようとして」とあるように、たしかに専門家は、正しい答えを言ったのに、何か焦っているように思うのです。それは何故でしょうか。
おそらく、彼は完璧な模範解答を示したと思っていました。けれども、このことをさらに強化し、自分は正しく行っているということを周囲の人々に示したかったのだと思いますし、また、それが具体的に誰かと聞くのです。

つまり、ここで具体的に「わたしの隣人とは誰ですか」と聞くということは、この掟には境界線がある、限界があるということを念頭にこの律法の専門家は、問い返しているということだと思います。
そこで、イエスは、たとえ話を語りだします。

ある人が追いはぎに合い、瀕死の状態で倒れていました。そこへ3人の登場人物がその人のそばを通ります。
まず、一人目は、祭司が通ります。エリコという所は、祭司の町でしたから、おそらくエルサレムでの祭儀や仕事を終えて、自分の町に帰るところであったのでしょう。しかし、この祭司は、「その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」とありますように、彼を見て見ぬふりをしたかのように通り過ぎていきます。
このことを読むと、私たちの普通の考え方からいくならば「なんて人だ」と思います。けれども、実は、このことは祭司という要職に就いている者にとってみれば、非常に正当な判断を下したことになります。

祭司は、ユダヤ教の祭儀を司る大切な役目を果たしていました。そのような人が、血に触れるということは、穢れを受けるということでありました。ですから、祭司にとっては、自分のなすべき仕事が果たせなくなるということを意味しています。それでは困るのです。たしかに、かわいそうな人だと思ったかもしれませんが、この祭司は、自分の仕事を果たすためにどうしても彼に触れることは能わなかったのです。
そして、それは次に登場するレビ人という人にも当てはまります。彼らもまた祭司が祭儀を司る際に、それを助ける奉仕を成す大切な役割がありました。ですから、その役目を果たすためには、自分が清らかな状態、穢れを受けるということは、考えられない状況だったのです。

いずれにせよ、この二人は、自分の大切な役割を果たすためにこの半殺しにされた人を見捨てざるを得ない背景があったのです。おそらく、このたとえ話を聞いている律法の専門家も、律法に精通しているわけですから、この二人の取った行動の正当性を理解していたことでしょう。ですから、この二人の取った行動は正しいと思っていたに違いありません。

しかし、イエスは3人目の登場人物を語り始めます。それは、サマリア人でした。サマリアびととは、ユダヤ人たちから見れば、忌み嫌うもっとも象徴的な人でした。異教の民と交わり、信仰的にも正しくないと思っていた人です。
しかし、このサマリア人が驚くべき行動をとるのです。
普段は忌み嫌い合い、決して交わることのないはずの、サマリア人が近づき、手厚く介抱し、宿屋まで連れて行き、当時の二日分の賃金であった二デナリオンを宿屋の主人に預け、足りなかったら帰りに払うとさえ言うのです。

これを聞いていた人々は、おそらく誰しもが驚いたに違いありません。まさかサマリア人が、ユダヤ人のためにそんなことをするはずがない。これまでの両者の対立を考えればそれは決してありえないことでした。
けれども、イエスは、そのようなたとえを示され、律法の専門家に問うのです。「隣人となったのは誰か」と。
ここに一つの真理が示されています。

最初、律法の専門家は、「隣人とは誰ですか」とイエスに問うたはずです。つまり、私の方を向いている人は誰か。私の隣人は誰かと問うことは、私を隣人のように愛してくれている人は誰かと、その対象を聞いていたのです。
しかし、イエスは、このたとえを話すことによって、「隣人となった」のは誰かと問うのです。
逆転がここに起こったということです。

その対象が、受動的な相手、私を愛してくれる人、私を隣人とみてくれる人を私たちは探し求めます。なぜならば、そういう人は、決して自分を嫌わないからです。そういう人は、一緒にいて楽だからです。居心地が良いからです。
私たちは、そのような決して裏切らない人を見出したくなります。そして、そういう人に対して、自分の良いと思うことをしてあげたいと思います。だからこそ、この時、律法の専門家は、「隣人を愛しなさい」という掟に対して、この良い行いをするべき人は誰かと問うのです。

けれども、イエスは、その問いに対して、そういう人を見出してから愛するということ、愛を受けたから、そのお返しに愛するということではなく、その隣人を自ら見出し、まずもって愛を注ぎなさいとこのたとえによって私たちに語りかけるのです。隣人とは、与えられるものではなく、見出すのであり、まず自らが誰かの隣人になるということを教えてくださっているのです。

私たちは、人を愛したり、良いことをしてやりたいと思う時、意識していても、していなくても、おそらく自分にとって居心地の良い人や、有益な人を対象にしてしまいます。
けれども、今日イエスが示してくださったこの「善いサマリア人」のたとえは、愛する対象は、この人であるという私たちが無意識に敷いてしまう境界線を乗り越える愛を示しているのです。

私たちは時として、この律法の専門家のように自分を正当化したくなります。祭司や、レビ人のように正しさを振りかざして、人を拒絶し、時には見捨ててしまいます。私たちは、そのような限界のある存在なのです。どうしても冷たくなってしまう時があるのです。私たちの普通の感覚からいえば、半殺しにされている人が居れば、救急車を呼んで、助けるだろうと思いますが、けれども、時としてそれができなくなってしまう実存をイエスは語ります。

そのような私たちに対して、イエスはあえて、隣人となりなさい、あらゆる私たちが引いてしまう境界線を乗り越えて、あなた自身が隣人となり、givetakeの関係ではなく、与える者となりなさいと言われます。
そのことに対して、私たちは難しさを覚えるかもしれません。けれども、その模範となってくださったのもまたイエスご自身です。私たちはどこまで行っても人を愛せなかったり、罪を犯し、神のみ前において見当違いなことをしてしまいます。けれども、イエスはそのようなどうしようもない私たちのためにご自身を捧げ、私たちの罪を贖ってくださいました。無償の愛を示してくださいました。

この境界線の無い愛を私たちもまた人々に注ぐことができるようにと祈りながら歩んでまいりましょう。まさに本日の主日の祈りである「主なる神様。あなたの民の願いに心を傾けてください。そして、私たちがなすべきことを悟り、喜んで行う力を与えてください。」という祈りは、私たちの真実の祈りそのものです。この祈りを絶えず口ずさみながら、神の導きによって、神のみ助けによってなすべきことを成せるように、私たち一人一人が人々の隣人となれるようにと願いながら歩んでまいりたいと思います。


望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって、わたしたちを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。

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