2013年7月8日月曜日

7月7日 聖霊降臨後第7主日 礼拝説教

主日の祈り
すべてのものの造り主なる神様。あなたはみ手を差し伸べ、全世界の民をみ国に招かれます。あなたが世界の隅々から、弟子たちを召し招かれるとき、「み子イエス・キリストは主」と、大胆に告白する者の群れに、私たちを加えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

聖書日課
第一日課:ゼカリヤ書127-10節(旧)1492
12:7 主はまずユダの天幕を救われる。それはダビデの家の誉れとエルサレムの住民の誉れが、ユダに対して大きくなりすぎないようにするためである。 8 その日、主はエルサレムの住民のために盾となられる。その日、彼らの中で最も弱い者もダビデのようになり、ダビデの家は彼らにとって神のように、彼らに先立つ主の御使いのようになる。 9 その日、わたしはエルサレムに攻めて来るあらゆる国を必ず滅ぼす。 10 わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。

第二日課:ガラテヤの信徒への手紙323-29節(新)346
3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。 24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。 25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。 26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

☆福音書:ルカによる福音書918-26 節(新)122
9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」 20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」 21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、 22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」 23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。 26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。

【説教】
本日の場面は、9章の丁度中盤にあたる場面です。では、この与えられた福音書の日課の前段には何が記されていたのでしょうか。9章の頭から見てみましょう。
まず、初めに1節からは、12人の弟子たちを派遣するという場面から始まります。イエス様が12人の弟子たちを呼び集めて、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わす」とあるように、イエス様がそのお力を弟子たちに授けて、遣わした場面です。
そおして、この宣教の旅は成功に終わります。なぜならば、6節には「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」とあるからです。

そして、その次には、ヘロデがイエス様の噂を耳にして戸惑いを見せます。周囲の人がイエス様のことを様々な旧約の偉大な預言者として形容したり、自分が首を刎ねたはずのヨハネだという人も居たからです。彼にとって、イスラエルを統治すること、領主としての権威は失い難いものでありましたから、そんな人が現れては、自分の地位が危ぶまれるのではないかという言い知れぬ恐怖が襲ったことでしょう。私はつくづく思いますが、権力を手に入れたものの宿命と言えるかもしれません。そういうことに心がすっかりとらわれてしまうのは、大変不幸なことであるように思えてならないからです。

そして、さらに今日の福音書の直前には五千人に食べ物を与えるという、非常にイエス様の物語において有名な出来事が記されています。まず、派遣していた弟子たちがイエス様の許に戻ってきます。
おそらく、弟子たちは意気揚々とイエス様の許に戻ってきたことでしょう。私たちのイエス様は素晴らしい、この人についていくことは正解だった。この人こそイスラエルを救う偉大な人になると思ったに違いありません。

そして、ベトサイダという町に退かれますが、群衆がイエス様たちについてきて、病気を癒したり、神の国について語ったとあります。そして、夕刻になろうとしている時、弟子たちがご飯をそれぞれに取ってもらうために群衆を解散させようとしますが、イエス様があなたたちがなんとかしなさいとお命じなりますが、自分たちに二匹の魚と五つのパンしかない、無理だとイエス様に言うのです。しかし、イエス様は、それを祝福し、群衆に配るとすべての人々が満腹するほどになったという奇跡が起こります。
イエス様のみ力、御ことばの力に弟子たちは、感動と驚きを抱いたと思います。おそらく、私たちもそのことを目の前にしたならば、大きな感動と驚きを抱くに違いありません。そして、イエス様はなんて素晴らしいのだと思うに違いないと思います。

というように、今日の福音書の前段において、イエス様の様々な力が発揮された結果の民衆や弟子たち、そして、支配者の心が描かれています。弟子たちにとっては、この人こそ誰よりも素晴らしい私たちの先生であり、預言者であると心に抱いたことでしょう。民衆たちは、この五千人に食べ物をお与えになるイエス様を見て、遂にエルサレムを敵の手から導く偉大なダビデのような人が現れたという期待を抱いたかもしれません。そして、とうのヘロデにとっては、自分を脅かす者が現れたという言い知れない恐怖心、猜疑心が心に思い浮かんだのです。

そのような様々な人々の反応をイエス様は感じ取り、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか。」と弟子たちに尋ねます。弟子たちは口々に様々なことを言います。ここで注目したいのは、弟子たちがイエス様を誰かと言っている言葉が前段のヘロデが戸惑う場面とほとんど一緒なのです。
つまり、多くの奇跡に与ってきた群衆にとって「イエス様はこれだ」という確信、共通の理解を示すことができていないのです。
未だにイエス様は、正体のわからない人、けれども間違いなく素晴らしい人である。エリヤのような預言者であるという期待。洗礼者ヨハネのような人だという期待。昔の預言者だという期待。様々な人に形容してイエス様をイスラエルにとって間違いなくプラスになるに違いないと考えていたのです。

そのような言葉を聞いてからイエス様は、改めて弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と聞きます。ここでイエス様は、かなり強い言葉を弟子たちに向けています。と、言うのは、「何者だと言うのか」という、箇所は、直訳するならば「何者だと断言するか・宣言するか」と問うているからです。つまり、イエス様は、これまでの様々な出来事を通して弟子たちがイエス様をどのような方か宣言することを促しているのです。

それまでは、イエス様は御自身が誰であるかということを明言しませんでした、けれども、ここでそう問うということは、初めてイエス様の正体が明らかにされるのです。その問いに対してペトロは「神からのメシアです」と答えるのです。いわゆるこれは、信仰告白です。私たちも使徒信条や、ニケや信条といった信仰告白でそのことを告白しています。ペトロたちは、ほかの群衆とは違い、イエス様をメシアだ、救世主であると断言します。

様々な事柄を目の前で見てきて、そして、ペトロをはじめ12人の弟子たちは特に、9章の始めに派遣され、病気を癒す力を授けられ、福音を語る力をいただき、方々で宣教し、その結果があまりにも手ごたえがあったために、そういう確信に至ったのです。この告白は、私たちから見ても大変すばらしいものです。さすがペテロ、イエス様の一番弟子だけあると思うのです。そして、それは確かに正解と言えば正解です。私たち自身もそのことを信じているからこそ、信仰告白をいたします。「私たちの主イエス・キリスト」と祈るのです。

けれども、イエス様は、そのような100点満点に思えるペトロの答えを聞いて、続く21節では「戒め、このことをだれにも話さないように命じて」とあります。何故なのでしょうか。
ここで注目したいのは、戒めるという言葉です。この言葉はギリシャ語で「エピティマオ epitimao」と言います。この言葉は、「エピ epi」と「ティマオtimao」という言葉から作られた言葉です。そして、「エピ」という言葉には、「反対に」「~上に」という意味があります。そして、「ティマオtimao」という言葉は、「自尊心」という意味があります。
つまり、戒めるということは、自尊心の反対の事がらを言うということであり、自尊心の上に覆いを被せるということです。
つまり、このペトロの信仰告白とは、そういったこれまでの成功体験からくるいわば、栄光、力、素晴らしさというものからくる信仰告白だったのです。私たちのイエス様は素晴らしい力を持っている、栄光の力に満ちている方だという思いだったのです。このことは、言ってしまえばヘロデと一緒です。ヘロデもまた、素晴らしい力を持ち、栄光に満ちているイエス様を知ったからこそ、イエス様を恐れ、危険視したのです。イエス様に対する思いのベクトルは違っても根幹は一緒だったということです。

そのような弟子たちにイエス様は、大変ショッキングなことを伝えます。しかし、それがイエス様がメシアたる本質を顕す御ことばだったのです。
私たちも救世主と言う言葉を聞くと、何か素晴らしい人を想像します。私はサッカーが大好きですが、試合観戦をしていて応援しているチームが窮地に陥っている場面で、交代した選手が活躍して、逆転などをするとあぁあの選手は救世主だと思います。弟子たちも、この思いだったのです。自分たちの置かれている社会的状況、旧約聖書に約束されている救世主とは、素晴らしい力強い方だと。

9章の始めから続く物語においては、そのような偉大な力を示すイエス様の姿が描かれていますが、弟子たちはすっかりそのことに心を囚われてしまったのです。たしかにイエス様はメシアでありますが、そのような栄光に満ちた姿で救いをもたらしてくださる方ではないのです。
「それはダビデの家の誉れとエルサレムの住民の誉れが、ユダに対して大きくなりすぎないようにするためである。」と本日の第一日課で語られているように、イエス様の御救いの出来事とは、決して私たちの自尊心を駆り立てる方ではないのです。イエス様が戒められたとある先ほど申した通りです。

私たちがイエス様はメシアであると告白する時、そこに見るイエス様の姿は、あの十字架に架かられた弱々しく、このお姿のどこに救いなどあるのかという所に見るのです。
私たちは、すぐに栄光、誉れ、喜び、力ということに心を奪われてしまいます。しかし、イエス様はそうではないとおっしゃっています。今日与えられた福音書において初めてご自分がメシアであるということを明らかにしたと同時に、十字架の受難を語られたということは、私たちに十字架を見よ、あの苦難の姿を見よというのです。
そして、その十字架の意味を深く信仰によってとらえよと言っているのです。


今日、与えられた福音書に響く神様の福音とは、この十字架を見よというメッセージです。私たちはこの御ことばを受けて、今一度、イエス様がメシアであると告白するものとして、何を見てそのことを告白するのか、信仰に刻んでいるのかと問いつつ、真剣になって御ことばに聴いてまいりましょう。

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