2013年6月23日日曜日

6月23日 聖霊降臨後第5主日 礼拝説教

言葉が実現する


本日の聖書日課
第一日課:列王記上1717-24節(旧)562
17:17 その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。 18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」 19 エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。 20 彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」 21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」 22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。 23 エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。 24 女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
第二日課:ガラテヤの信徒への手紙111-24節(新)342
1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。 12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。 13 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。 14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。 15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、 16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、 17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。 18 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、 19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。 20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。 21 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。 22 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。 23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、 24 わたしのことで神をほめたたえておりました。
☆福音書:ルカによる福音書711-17 節(新)115
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。 12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺(かん)が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 14 そして、近づいて棺(かん)に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。 16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。


【説教】
本日の福音書の出来事は、非常に驚くべき出来事が語られています。
なぜならば、「死人が起き上がってものを言い始めた。」とあるように、死んでいた者が生き返ったからです。イエス様が、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言い、その棺に触れられることによって、この出来事は起こりました。
おそらく、今の医療の技術をもってしても死んだ者を生き返らせることは不可能でしょう。ですから、現代人である私たちの目から見ても非常に驚くべき出来事が起こっていることは自明です。

しかし、この物語は、ただ単純にイエス様が素晴らしい力を持っている。そらみろ、やっぱりイエス様は、神様の御子であるということをひけらかすために書かれている物語ではありません。では、このイエス様の出来事から語りかけられている福音とは何か。そのことをこのひと時ご一緒に神様の声に耳を傾けてまいりましょう。

本日の福音書においてもっとも私たちの心を打つ御ことばは、13節に出てくるイエス様の母親に対する「もう泣かなくてもよい」という御ことばではないでしょうか。
母親にしてみれば、愛する息子を亡くしたことは、悲しみのどん底の出来事です。しかも、彼女はやもめでした。夫に先立たれたことにより、社会的に弱くされ、苦労をしながらも息子と共に生きてきました。しかし、この時、そのような彼女に追い打ちをかけるかのように息子すらも失ってしまったのです。

何かを失うということは、非常に大きな痛みを伴います。しかし、人は誰しもこのことを経験いたします。私自身もこういう経験を少なからずしてきました。両親の祖父母は、皆天国に召されていきましたし、友人も数人病気などで先立たれたという経験をいたしました。
また、年を取ることによっても、失うということを経験します。昔は出来ていたことが段々とできなくなる。小さな字をたやすく読んでいたのに、今は老眼鏡をかけて距離を調整してやっと読むということも、一つの失われたということの出来事です。また、階段をすいすい昇り降りするということも、なかなかできなくなったということもそうでしょう。
そのことを痛感すれば、するほどに自分が情けなくなり、悔しさがこみあげてくるような思いがします。
いずれにせよ、失うということにわたしたちは、大きな怖れを抱きます。そして、できるならば、失うことを避けようとして生きていきたいとも願います。

聖書に戻りましょう。ここに登場するやもめはまさに、失うということの極みの中にあるのです。
夫を失い、頼りにしていた、愛する息子も失い、そして、そのことによって益々社会の中で生きにくくなるという喪失を味わっている最中なのです。
ましてや、死ということは、もう絶対に取り戻すことのできない喪失です。冒頭にも述べましたが、当時の医療技術からいくら進歩したとはいえ、現代の医療技術でも死んだ者を生き返らすことは不可能なのです。

イエス様は、そのような悲しみに暮れている女性の葬列に出会ったのです。「棺が担ぎ出されるところであった」と記してありますから、息子の遺体をまさに墓穴に収めようとしている、そのような場面です。
聖書を読む限り、意図してこの葬列に出会ったわけではなさそうです。たまたま弟子たちと共にナインという町に来た時に出会った出来事です。

この時、イエス様は、この葬列を見て、そして、そこで嘆き悲しむ母親の姿を見て、憐れまれるのです。
ここに記されている「憐れみ」とは、はらわたが動かされるほどの憐れみです。しかもこの箇所は、ギリシャ語では受動態として語られています。つまり、イエス様は、この母親の姿をみて、彼女の悲しみ、嘆きをご自身に受け取られていったということです。
「あぁ葬式をしているのだなぁ」という他人行儀な思いではないのです。イエス様はこの時、本当に心からこの母親の痛みに寄り添ってくださっているということが聖書に記されているのです。

死という人間には不可避な出来事、もうどうしようもない、諦めるしかないという思い、けれども、どうしたらこの気持ちを良いのか分からずにいるこの母親にイエス様は「もう泣かなくてもよい」と語りかけます。
この箇所を個人的に私訳するならば、私はこうします。「もう悲しまなくてもよい」です。泣くというよりも悲しみという感情の方がこの母親にとっては強かったと思ったからです。

この言葉は、気休めでイエス様が語られたのではありません。この御ことばには、先ほども言いましたように、イエス様ご自身がこの母親に本当に深く憐れまれたからです。この慰めということは、非常に彼女にとって大きな御ことばであったと思います。
私たちの取り巻く世を見回してみると、このあやふやで、定かではない言葉があふれているように思います。
先日、新聞記事で一つの政府に対する批評がありました。それは「めざし」政府だということです。
魚のめざしではなく、自民党の公約の中に「~を目指し」という言葉が33あったという記事です。夢を語る、夢を膨らますのは良いが道筋が見えなければ意味がない。実現しなければ意味がない。というような内容でした。

私たちは誰しも、何かを失っている時、そこから立ちあがるために様々なことを必要とします。言葉であったり、それに代わる新しい者であったり、それは様々な姿をとります。そして、それを確かなものとして受け取っていきたいと思います。
死というどうしようもない出来事、それ以上に大きな悲しみは無い、行き場のない悲しみに暮れるしかない彼女にとってこのイエス様の「もう悲しまなくてもよい」という御ことばはどう彼女に響いていったのでしょうか。
おそらく、聖書が語りかけるかぎり、その御ことばは彼女にとって確かなこととなったのです。この福音は、乗り越えることの不可能な息子の死という悲しみから引き上げられる大きな慰めの言葉となった、確かなものとされたということを語っています。

先ほど、イエス様がこの女性の痛みを受け取ったのだと私は皆さんにお伝えいたしました。つまり、この一連のイエス様の出来事が示されていることは、神さまもまた私たち一人一人が経験しなければならない、あらゆる悲しみや、嘆きに寄り添ってくださっているという真実です。
この憐れみ深い神様が私たちと共にいてくださるという真実をこの出来事は、私たちに語りかけます。
しかも、この物語は、さらにこの行き場のない悲しみ、超えることのできない嘆き、失われたものを回復された出来事が記されています。

イエス様は、この時その母親の悲しみをご自身に受け取っていき、その棺に手を置いて「起きなさい」と命じられ、息子を生き返らせ、その息子を母親に返されたのです。
ここに一つの真理が語られています。それは「返される」ということです。私たちは、失ったものについて考える時、それは自分で獲得してきたものを失うということを思い起こします。
それが体力ならば、自分自身がトレーニングをしてきたからかもしれません。健康であったとしても、それは自分なりに気を使ってきたから獲得しているものだと思います。
何にせよ、私たちが失うということは、何か自分で獲得したものを失くすということを想像するのです。

しかし、そうではないのです。ここにイエス様が母親に息子を返したと記されているように、すべては神さまから与えられたものであるということです。この母親にとっては、自分が苦しんで生んだ、そして、夫に先立たれたけれども、必死になって育ててきた息子という、自分の何かによって得た息子でした。
でもそれは大きな思い違いだったのです。この息子もまた神様が与えてくださったものだったのです。

ここに記されているイエス様と母親の関係性は、そのような人間と神様との本来の在り方を示しているのです。
私たちは、何かを失うということについて、自分が中心になっているのです。だからこそ、それをひとたび失ってしまったのなら、悲しみ、嘆き、それに固執して、それを取り戻したいと足掻きます。
しかし、失ったものをわたしたちはなかなか取り戻すことはできません。そのような限界のある存在なのです。

しかし、神様はそうではありません。失ったのものを、不可能な事柄を回復される方なのです。
つまり、失ったことを嘆く必要が無いということです。
いかなる事柄であれ、失われたものは、回復されていくのです。この時、母親には生き返った息子が、イエス様の手によって彼女に返されましたが、回復されるものは、その人によってそれぞれかもしれません。けれども、たしかに悲しみにくれ、自分の限界の中で嘆くほかなかった者に大きな救いがもたらされたのです。

主のみ言葉は、私たちの真実となるのです。起きなさいと言われれば起きる者とされる。「もう悲しまなくてもよい」と言われれば涙は拭われるのです。
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。という御ことばが真実であるということをこのイエス様の出来事によって私たちは示されました。

讃美歌の11番にこのような歌詞があります。
生くるも死ぬるも ただ主をおもう
ゆるがぬこころを あたえたまえ

私たちは、今日この御ことばによって、この揺るがぬ心を、いつも共にいてくださる。確かなものを与えてくださる。回復を約束してくださる神様の福音を聞きました。
この約束を胸に刻みながら今週一週間も歩んでまいりましょう。恐れることはありません。共に主が居てくださいます。失うことの多さを思います。様々なことを失われている人々のことを思い起こします。けれども、今日そのような私たちの思いをご自身の身に負って、深い憐れみと、そこからの回復を今日この福音によって私たちに約束してくださっています。
この示された神様の深い慰めに大胆により頼んで歩んでまいりましょう。


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