2013年6月2日日曜日

6月2日 聖霊降臨後第2主日礼拝 説教




「和解」




主日の祈り
主なる神様。私たちにみ霊を注いで、あなたの愛の器とし、辛苦の道を歩むすべての人に、よき隣人として仕えさせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:創世記45:3ー15
45:3 ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。 4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。 5 しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。 6 この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。 7 神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。 8 わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。 9 急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。 10 そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。 11 そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』 12 さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。 13 エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」 14 ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。 15 ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。

第二日課:コリントの信徒への手紙一141220
14:12 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。 13 だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。 14 わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。 15 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。 16 さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。 17 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。 18 わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。 19 しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。 20 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。

福音書: ルカによる福音書6:2736
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

【説教】
今日はまず、皆さんお一人おひとりの歩みということを思い起こしていただきたいと思うのです。おそらくお一人おひとり「さぁあなたの人生を思い出してください」と言われたら、印象に残っている出来事や、楽しかったこと、苦しかったことなどが瞬時にパッと何かしら思い出すことができると思います。
私たちは、そのようにして一人ひとりが、それぞれに違う人生を与えられ、一人として同じ歩みを歩むことはありません。同じ事がらを共有したとしても、その人によって思うことも、感じることも違ってさまざまであると思います。

そのようなお一人おひとりに与えられた人生をどう生きるかということは、おそらく人間の究極の課題であると思います。そして、そのことを思いながらそれぞれに皆さんも歩んでいることであろうと思います。ある人は、富を求めて、ある人は、名声を求めて、ある人は、とにかく働くということを大切にして、ある人は、家族を大切にするということを念頭に置きながらと、その生き方は様々であります。

今日の与えられました御ことばは、その人生をどのように生きるかということを私たちに語りかけている御ことばであると思います。そのことを共に何であるかということをご一緒に耳を傾ける時としてまいりたいと思うのです。

さて、先ず今日は第一日課から見てまいりたいと思うのです。
今日与えられました日課は、ヨセフと兄弟たちの和解の場面です。昔、ヨセフが兄弟たちに妬まれ、エジプトの奴隷商人に売られてしまった。けれども、ヨセフはエジプトで夢の説き明かしをし、ファラオに気に入られ登用され、遂にはエジプトの今でいう首相の地位にまで上り詰めるのです。そして、夢の説き明かしによって飢饉が襲うことを予知し、たくさんのたくわえを国中にさせ、いざ飢饉が起きたときには多くの人々を救ったという物語の中での兄弟たちとの再会を果たした一場面です。

ここでヨセフが兄弟たちに「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。8わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」と言い切ります。弟を妬み、奴隷として売ったという後悔に苛まされている兄弟たちに対して、ヨセフはそのように言い切るのです。
私たちは、最悪な状況にあるとき、何故、どうして、という思いが大きく心を支配します。

おそらく、人間的な目で見るならば、ヨセフに起こったことは最悪の出来事でした。けれども、その最悪と思われていた出来事が、実は大いなる神様の御救いの出来事の一端であったということを、このヨセフ物語は私たちに伝えています。そして、ここで注目したいのは「お遣わしになったのは」という御ことばです。ここは、ヘブライ語では「置く」という意味です。つまり、それは神さまがヨセフをそこに置いたということです。人間的な目で見るならば、何故こんな目に、どうして私がという思いが支配します。

けれども、究極的に突き詰めていったとき、それは神様のご計画の中でそこに神様がその人を置いたということになるのです。そして、神様がそこにその人を置いたということは、意味があるということです。ただ単に無責任に神様はなさりません。神様が私たち一人一人を手に取って、そこに遣わしてくださっているということには大いなる意味があるということを覚えることができるならば、大変大きな幸いの中にあるということを思うことができる人生となるのではないでしょうか。

なぜならば、そこに神様がこの私を置かれたということは、そこで何があろうと神様の見守りと、導きとの内にあるということを意味します。まさに神様の御手の中にあるということです。確かにさまざまに自分の思いというものが心を支配してしまうことがあります。けれども、そうではないのです。
実は、私たち一人一人が今ここに居ること、今それぞれに与えられている状況の中で生きることには、神様から与えられている意味があるということであり、その神様の御声に耳を傾けながら歩むことができればと思うのです。

そのような神様がわたしを今このただなかに置かれているということを思いながら、本日与えられている福音書の日課に目を向けてまいりましょう。今日読まれました福音書の日課は、いわゆる愛敵の教えといわれているものです。マタイ福音書では山上の説教として語られていますが、ルカでは平地の説教の中におかれている教えの一つです。

この教えは、しばしば私たちキリスト者にとって大事な教えの一つとして学ぶ機会を得たりします。時には、クリスチャンは、敵を愛さなければならないとか、施しをしなければならない、祈らなければならない、もしくは、そういう人なのだろうと思われる根拠となっている箇所でもあります。
たしかに、愛するということは、非常に大切なことでありますが、この御ことばをただ単純に字義通りに、字面通りに聴くことは違うと思うのです。

イエス様が話しておられた言葉はアラム語といわれている言語です。そして、ユダヤの人々が話しているのはヘブライ語ですが、これらの言語には、命令形で「~しなさい」という言葉づかいよりも「あなたは~だろう」「あなたは~するだろう」「あなたは~しないだろう」という語法を好んで使うという一つの特徴があります。
十戒もまさにそのような語法で書かれています。しかし、日本語訳では、戒めなのだから命令形で訳した方がよいだろうと昔の訳者が思ったのでしょう。その訳を「~しなければならない」というように訳したのです。

翻訳者の批判をすることが説教ではないので、本題に戻りますが、ここで言いたいことは、このヘブライ語の背景ということに当てはめるのであれば、ここでは「あなたがたは敵を愛するだろう。あんたがたは憎む者に親切にするだろう。悪口を言う者に祝福を祈るだろう、侮辱する者のために祈るだろう」というようになります。
いずれにせよ、わたしたちは、このような生き方へと変えられるということをイエス様は私たちに伝えてくださっています。その根本は、何なのでしょうか。

それは、唯一の神様がお一人おひとりのうちに働かれるということです。
そして、その根底には神様の愛が、祝福が、祈りが働いておられるということです。あなたがたの父が憐れみ深いようにという言葉にあるように、この教えに先立つのは、神様の働きです。
私たちは、私たちの思いに囚われているのであれば、敵を愛することなど到底できません。
けれども、神様はイエス様をこの世に遣わしてくださり、御自分と敵対する者のために十字架に架かってくださいました。

十字架の出来事は、私たちキリスト者だけに与えられた救いの出来事ではありません。すべての人々の罪のためにイエス様ご自身が、その罪を背負い、痛み、苦しみ、悩みぬいてくださったのです。
だからこそ、私たちは、救いに与る者とされているのです。

この前提が無ければ、敵を愛することは空しくなってしまいます。
そして、この教えはまずもって神様ご自身が示してくださっているということです。それが十字架の出来事であり、私たちの一人一人の人生に実際に働いてくださった神様の側の行為です。
私たちは、どうしても敵を愛したり、憎む者のために祈ることができません。けれども、神様が、イエス様がそのように私たちのために働いてくださったのであれば、そのようにされるということを示してくださっているのです。

イエス様の十字架とは、そのような私たち一人一人と神様との和解のしるしでもあるのです。罪深い私たち一人一人が神様の愛によって大きな報いを与えられ、赦されているという真実の出来事なのです。だからこそ、私たちは、敵を愛し、祝福を祈ることができるように変えられているのです。

初めにヨセフの話をいたしましたが、彼自身もおそらく兄弟に裏切られ、エジプトに奴隷として売られたこと一つとれば、兄弟を赦すことなど到底できなかったでしょう。
けれども、そのことが神様の確かさの中にあるということに気付かされた時、兄弟を赦すことができたのです。神様への深い信頼に立つとき、人間的な思いを超える神様の御心、御旨に気付かされていくのです。

この神様の働きが無ければ、おそらく愛することも、祈ることも、祝福の言葉もむなしいものとなってしまいます。けれども、私たち一人一人が本当に心から神様に信頼して、愛すること、祈ること、祝福することを願うならば、それは実現していくのです。
たとえ、人間的な思いであの人を愛するなど到底無理だと思っていても、変えられていくのです。この神様の大いなる業の中に私たちは置かれています。

この教えは、倫理的な規範では無いということが明らかにされます。これは神さまによって変えられる一人の人に起こる、神様の出来事なのです。私たちは、この神様の出来事の中に置かれています。
まさに、「遣わされた」という言葉が「置く」という言葉で表されているように、私たちは、一人一人がそのように神様の御手によって置かれ、神様によって愛し、祝福を祈り、祈る者とされている。この信頼に立って歩んでまいりましょう。


人生には様々な場面が与えられ、多くのことを経験します。その時にあって、自分の思いではなく、それにまさり神様が働いてくださり、導いてくださっているということを覚えてまいりましょう。このイエス様の教えには、そのようにされている人間の真実が語られているのです。この大いなる神様のお働きに感謝しながら今週一週間も歩んでまいりましょう。

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