2013年6月15日土曜日

6月9日 聖霊降臨後第3主日説教

東京駅のように

主日の祈り
主なる神様。あなたの民の願いに心を傾けてください。そして、私たちがなすべきことを悟り、喜んで行う力を与えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。
本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書71-7節(旧)1188
7:1 主からエレミヤに臨んだ言葉。 2 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。 3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。 4 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。 56 この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。 7 そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。

第二日課:コリントの信徒への手紙Ⅰ151220節(新)318
15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。 20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

☆福音書:ルカによる福音書637-49 節(新)113
6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」 39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」 43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」 46 わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

先ごろ、東京の玄関口である東京駅の修復工事が長年の歳月をかけて、やっと完成したというニュースがありました。私が、中学生で実家を離れて上京したころから修復工事をしていましたから、本当に長い年月をかけて修復されたようです。そして、大正時代の近代建築の生きた題材ですから、戦災で焼けてしまった南北のドームの部分を復元した3階建ての立派な駅舎が完成したのです。私は、恥ずかしながら先年まで東京に住んではいましたが、結局駅舎内を乗り換えのために移動することはありましたが、外観や復元されたドームを見ることなく山口に赴任してきました。
今思うと、一目でも見ておけばよかったと思いますが、今度上京したら見てみようかと心に思っています。

さて、この東京駅の駅舎ですが、大正12年(1923年)に起こった関東大震災に耐えた建物としても有名です。M7.9もあった大規模な地震にも耐えたのです。周りの建物が倒壊する中、東京駅の駅舎だけはビクともしなかったそうです。
そのような地震に耐ええたのは、言うまでもなく土台がしっかりしていたからでした。

先日、東京駅復元の特集を見る機会があったのですが、修復工事で明らかになったのは、土台に上質な松の杭が1万本以上使用されていたそうです。そして、その松の杭を支えるために、砕石がびっしりと敷き詰められていたのです。このしっかりとした土台のおかげで東京駅は、関東大震災にも耐え抜くことができました。
建物を建てる上で土台がいかに重要であるかということをこの建物は示していたということになります。

さて、本日読まれた福音書の最後に付された小タイトルが「家と土台」とつけられています。
このことが何を私たちに福音として響いているのかということ、イエス様が語られているこのことは、何を意味するのかということをこの時、共に聴いてまいりたいと思います。

先ず、今日与えられました福音書の日課において、イエス様は人を裁くなと私たちに教えられます。この教えを聞いて私たちは、どう思うでしょうか。現代社会において、司法制度というのは、実のところ私たちの実生活を支配しています。犯罪をしたらということはもちろんのこと、教会においては宗教法人法など様々な法律によって、色々な事が定められ、それを破れば罰を受けるということが当たり前の世の中に生きています。

そして、聖書にもトーラーと呼ばれる律法の書が記されています。その代表格が、十戒になります。ユダヤの人々は、この十戒を基礎にして、自らの生活の規範としていきます。けれども、この十戒はいつの間にか字義通りにしか理解されないものへとされていったのです。それが、福音書に出てくるファリサイ派や律法学者という人々であり、イエス様は、彼らと真っ向から律法の理解について対立していくのです。

そもそも十戒とは、私たちを裁くために神様が定められたものでしょうか。はっきり言うならば、「否」です。十戒が神様からイスラエルの民に与えられたとき、雷鳴とどろく中で、恐れる民に対してモーセは「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」(出エジプト20:20)と語ります。つまり、この十戒とは、わたしの在り様がどうであるかという物差しではなく、神様の側の恵みであり、罪という深い谷底に落ちないためのガードレールだったのです。

それが、先ほども言ったようにだんだんといかに私が正しいかという正しさを証明するものさしのようになり、そして、律法をもって人を裁くものさしとなっていったのです。神様の側の全くの恵みが、人間の物差しになってしまったが故に、イエス様とファリサイ派や、律法学者との対立が起きたのです。

そして、更に言うならば、この律法は神様の御ことばです。イエス様が私たちに教え、諭してくださるのと同じです。つまり、聖書に記されている御ことばは、たとえそうは見えない者であろうと恵みそのものとして受け取っていくことが大切であるということを示しています。
そして、その御ことばによって私たちは行うということが、大切なことであるとイエス様は言います。
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と語りかけている通りです。

十戒がイスラエルの民に与えられたとき、民たちは「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります。」という約束によって、神様との契約を交わしたと聖書には記されています。
神様の御守りと、導きに聴き従い、行っていくという誓いです。この約束は、神様との非常に大切な約束です。
行うということは、その神さまとの約束ゆえに行うのです。しかし、私たちルーテル教会は、行いによってではなく、神様の義によって義とされ、救われているという教えを大切にしていますが、このことも字義通りに理解すると、行いは必要でないと取られかねません。しかし、そうではないのです。

私たちの行いとは、その神様によって義とされたがゆえに、神様の御救いのゆえに行う者とされるのです。
それが、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人なのです。
岩の上という事は、その地盤は揺るぎないと言うことです。

しかし、私たちを突き詰めていけば、十戒や律法の事がらをすべて正しく行うことは、私たちには出来ません。また、この平地の説教と言われる先週から続くこの聖書の御ことばですら、私たちは守る事が困難であります。先週読まれた、敵を愛しなさいということもそうです。隣人を愛することなら何とか出来そうですが、敵を愛すると言うことは非常に困難さを覚えます。

ですから、極端な話しでも何でもなく、私たちは神さまの御前において、「お前はわたしのみ言葉をまるっとすっぽり全部守っているか」と問われたならば、何も申し開きできないほどに罪ある状態です。
そのような罪人であるわたしたちに対して、イエス様は今一度、この旧約の約束を更新されるのです。けれども、それは、空しい約束ではなく、そして、私たちには到底無理な約束でもありません。

なぜならば今私たちは、イエス様の十字架によってその罪を贖われ、赦されているという真実をも御ことばから聴いているからです。このイエス様の十字架の出来事を通して、今一度主なる神さまとの約束を聞くとき、「わたしはまったくもって罪人であります。けれども、あなたの御子イエス様の贖ってくだり、義とされ、信仰を与えられ、今一度あなたとの約束を交わす事が赦されています。」と告白することが出来るのです。その恵み、罪人に過ぎない私自身を捨て置かない神様の愛に感謝しつつ、応答していくことは大切なことです。

今この御ことばを聴く私たちは、悠久の昔、イスラエルの民が神さまと交わした約束と同じ事がらの中に居るのです。このことは人ごとではありません。この約束のうちに私たちはあり、神さまの御ことばに喜んで聴き従うということをイエス様から語りかけられています。そして、その様なときたとえ大水で揺り動かされても、堅く据えられた土台、つまり私たちの生の根本にあるイエス様の十字架の贖い、罪人を捨て置かれない神様の愛、恵み、祝福、赦しによって揺り動かされることのない者とされているのです。

そしてこの事が示すことは、この家と土台というイエス様のたとえ話によって、このルカによる福音書のいわゆる平地の説教を聞いた者の在り方を示しているのです。この教え一つ一つに私たちがいかに応えるか、しかもそれは旧約の時代に交わされた約束以上に、今やこの御ことばによって、イエス様ご自身によって、イエス様の御ことばと存在、わたしのために罪を贖ってくださったという大いなる恵み、御救いに照らし合わせて、結ばれたものなのです。

この事によって、私たちははじめて、イエス様の弟子として「私たちがなすべきことを悟り、喜んで行う力を与えてください。」という本日の主日の祈りの言葉となるのです。
十字架によって贖われたわたしが、神様との、イエス様との交わりを通して今一度与えられた新しい約束に対して「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります。」とかつてイスラエルの民が応えたように応えることができるのです。

まさに、どっしりとしたイエス・キリストという土台を、東京駅の何万本もの松杭、関東大震災にも耐えた立派な土台にまさる、人生の土台を据えることとなるのです。恐れずに、神様とのこの約束を果たしていきましょう。
イエス様は大水が襲うと表現し、私たちの人生には困難や苦難、悲しみが押し寄せることは否定しません。

まさにイエス様が捕まる夜、ゲッセマネの祈りにおいて、「この杯を取り除いてください」と祈りながらも、「しかし、御こころのままに」と祈られたイエス様もまたこの大水の体験をしています。けれども、本当により頼み、御声に従うならば、その事ももう神様にお委ねしていけばよいのだという堅い父なる神様への信頼がそこに表されています。
ですから「大水が襲う」ということが、たとえ起こったとしてもこのイエス様の祈りの姿が示しているように神様が必ず私たちを導き、なすべき業と、祈りと、恵みとを与えてくださるということを伝えてくださっています。

神様があなたを支えてくださっています。イエス様があなたを赦し、喜んで神様の、イエス様の御ことばに従うことができる者とかえてくださっています。罪人であり、罪しか犯すことの出来ないわたしでありますが、この更新された約束、まさに新約の中に生きて、歩んでいます。
この揺るぎない約束に立って歩むことが赦されていることを思いつつ、この日から始まる一週間を喜んで神様の御ことばを行う者として、遣わされたそれぞれの場で証ししてまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン。

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